フランス帰国まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 22:59 UTC 版)
「ジョルジュ・ビゴー」の記事における「フランス帰国まで」の解説
日清戦争の勝利により日本がアジアの中でその地位を高めたことで、ビゴーの風刺は日本を中心とした極東情勢が主なテーマとなっていった。同時にロシア帝国に対抗するイギリスが日本への接近を図り、条約改正への流れは決定的となる。ビゴーが主な顧客としていた居留地の外国人が条約改正を嫌って離日すること、また写真の発達で報道画の仕事が激減したことで、ビゴーは生活の不安を抱えた。加えて、条約改正に伴い、外国人居留地と治外法権が撤廃されることで、従来のような居留地を根拠とした自由な出版活動が困難になることを予期していた。ビゴーはまた多くの居留外国人同様、日本の司法や警察に不信を抱いていた。 1899年(明治32年)6月、条約改正の発効1ヶ月前にビゴーはフランスに帰国した。39歳であった。夫人のマスとは離婚し、フランス国籍の長男は自らが引き取ってフランスに連れ帰った。マスとの関係については、のちに誕生した次女の回想として「離縁された」という証言があり、及川茂は「マスとの確執がビゴーの忍耐心を抑えられなくなったのである」と記している。 帰国直前に刊行した画集『1899年5月』は、日本への幻滅感を強く印象づける内容となっている。銅版画で日本を題材とした画集『ル・ジャポン』の刊行を企図したが、未刊行に終わった。
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