フランス帰国、逮捕と脱獄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:12 UTC 版)
「ジャック・メスリーヌ」の記事における「フランス帰国、逮捕と脱獄」の解説
その後、ジャヌーが未だに収監されていたことから、ジョスリーヌという新しいガールフレンドをみつけ、中南米からスペイン、フランス西部にかけて銀行強盗を重ねて現金を入手。マント=ラ=ジョリー、ついでブローニュ=ビヤンクールで豪勢な生活を送った。1973年3月8日、ヴェルサイユの県司法警察局(SDPJ)が、オーベルジュ時代の背信行為のかどでメスリーヌを逮捕したものの、6月6日、裁判所に出廷したさいに隠し持っていた拳銃を裁判長に突き付けて人質に取り、脱走に成功。9月17日にはパリ17区で国立銀行支店を襲撃、2軒目の襲撃直前で警察に発見されて銃撃戦となり、共犯者4名のうち1名が逮捕された。メスリーヌ本人は逃走に成功したが、パリ警視庁の所轄と捜査介入部(BRI)の捜査によってアジトが突き止められた。当初は自爆すると脅迫していたが、BRI副隊長のブルッサール主席警視正の説得に応じ、ブルッサール主席警視正とシャンパンを乾杯したのちに投降した。 当初は仲間であるウイロケ夫妻に誘拐させた重要人物との交換による釈放を企図していたが、まもなくBRIが夫妻のアジトも特定し、妻を逮捕したことでこの計画は破綻し、1977年5月19日、懲役20年を宣告された。しかし1978年5月8日、フランソワ・ベスとカルマン・リーヴとともにサンテ刑務所を脱走。脱走直後に警邏中の警官と遭遇し、カルマン・リーヴは射殺されたものの、メスリーヌとベスは逃走に成功した。5月26日にはドーヴィルでカジノを襲撃、11月10日には1977年の裁判のさいに裁判長を務めていたシャルル・プチ裁判官の家族を襲撃している。 1979年6月21日にはサルト県の不動産王であるアンリ・ルリエーヴルを誘拐し、600万フランの身代金を奪った。また9月10日には、メスリーヌを追っていた週刊誌「ミニュット」のジャック・ティリエ記者(元フランス国土監視局職員)の求めに応じて接触したが、この際に記者の顔や肩をピストルで撃ち重傷を負わせた。しかしこの際に、シャルル・ボーエルという元囚人を相棒にしていることが判明したことから、BRIはボーエルの妻が乗っていたルノー・14の交通違反記録からボーエルの居場所をたどり、10月31日、BRIと犯罪対策中央部(OCRB)はメスリーヌのアジトの特定に成功した。
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