フランス式からドイツ式への移行と近代兵備の進歩
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「大日本帝国陸軍の歴史」の記事における「フランス式からドイツ式への移行と近代兵備の進歩」の解説
1870年7月19日に発生した普仏戦争は翌年1871年5月にドイツの勝利に終わった。幕末には幕府陸軍はフランス陸軍式、紀州藩軍はプロイセン陸軍式などをバラバラに採用していたところを後の陸軍はフランス式に統一していた。しかし、陸軍大学校での教官不足は深刻で人材育成のためにドイツに駐在武官として赴任経験のある桂太郎の進言により陸軍はドイツから軍制度・用兵を学ぶこととなり、1885年(明治18年)3月にドイツ陸軍参謀少佐クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルを招聘し、在職3年間を通じて陸軍の大改革に絶大な影響を及ぼした。 メッケルの厳しい指導の下で陸軍大学校の改革は漸次進められた。これと合わせ陸軍の諸政策全般も1887年ごろからドイツ陸軍式に順次転換された。1891年(明治24年)に改正された歩兵操典はドイツ陸軍操典(ドイツ本国で1888年に改正)に範をとったものになった。当時の日本陸軍は単発式小銃が主流であったが連発式小銃に対応したドイツ陸軍操典を導入しフランス陸式の守勢的主義からドイツ陸軍特有の攻勢主義・短期決戦の用兵思想を取り入れた。 戦術とともに兵器の進歩も著しく変わった。1880年(明治13年)に村田経芳少佐が発明した村田銃が採用され逐次改良の上更新された。大阪砲兵工廠でも75mm野・山砲の生産を開始した。この砲は当初クルップ社製を採用しようとしたが、日本の鉄鉱石産出量は少なくイタリア製の鋼青銅型が採用された。
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