フランス式庭園への発展とは? わかりやすく解説

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フランス式庭園への発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:10 UTC 版)

フランス式庭園」の記事における「フランス式庭園への発展」の解説

フランスで農業を営むには空地を耕さねばならない。そのうえ、しばしば侵入者から畑を守らねばならなかった。フランス人早くから庭や畑に大きな愛情抱いたはこうしたことに由来しフランス人が、「祖先聖なる土地」を守るとき、彼らはや町のことよりも、その庭や畑のことを考えているとされる。庭は数世紀についてはプレオ中庭形式であり、わが身を守るために城塞陰に身をひそめてなければならなかったが、これはブレ・オー「高みなる草地であって高所造られひとひら小さな草地近く野原斜面作られ矩形草原意味したフランスの庭が開花したのはルネサンス以降で特に宗教戦争終わり頃からで、農業振興君主制下の社会建設に力を注いだシュリー時代以降庭園もまたそれに伴って飛躍的な発展をとげた。他の国異なりフランスでは農業発展社会の展開、造園三者間はつねに密接な関係があったのである15世紀末ごろからフランスの庭に新し息吹き吹き込まれる。「ゆたかなイタリア美術ナポリ見た素晴らしく美しい庭に魅せられて帰って来たシャルル8世は、イタリアから一群造園家たちを呼び寄せて、ガイヨン、アンボワーズブロワなどの王宮の庭を造らせている。しかしナポリ造園家たちの才能にもかかわらず、この貢献また、ロベール・ダルトワの「技師」たちの場合同様、フランスの庭の精神変えることはなく、ほんのわずか新し要素付け加えた過ぎず、庭の周囲立木組合せトンネルをつくり、そのドームの上アサガオバラ蔓草などを這わせ、またブロワでほ木枠に鮮かな色を塗ったり、それを金メッキ際立たせたりしている程度である。このことについてジョルジュ・シモンは『庭』(1943年)において、ルネサンスイタリア式庭園には大いなる構想や広い眺望欠如していた、建物平面がつねに不規則そういったものになじまなかったのである、と説いているほか、ルネサンス期では庭が住居同時に造られたのではなく、庭は、それ自身好みあわせて手を加えられ中世城塞に、あとから「付け加えられた」としている。 ジュリア・S・ベラルの『図説庭園史』によると、庭園には野生の花が咲き乱れ、その種類としてひなぎくうまのあしがたおだまき釣鐘草紫のクロッカスサフランすずらん桜草、すみれ、雪割草パンジーなどのほか、野ばら百合シャクヤクアイリスなども植えられたとしている。鉢植えの赤いカーネーション当時流行の花であったという。ついで十字軍によって、サンザシタチアオイライラックが、コンスタンチノポリスダマスクスからもたらされおおわれ石造りベンチも、ほぼひとしい間隔をおいて配置されたことが知られている。 ほか烏龍噴泉さらには幹を丸いベンチ囲んだりんごや桜の木もあるほか、ジュリア・ベラルによれば当時芝生部分休息遊戯踊りの場として用いられそれ以外部分はふつう、煉瓦や石や板でふち取られて花花壇になっていたという。庭のこの部分は、入り込まぬよう木の柵で守られて、そうした柵は往々にしてその所有者紋章の色で塗られていたという。こうした庭の様子をかなり細かいところまで知りえるのは、いわゆる中世の「花模様」のタビストリーを織り出す職人たちのモデルになり、またそれはさまざまなミニアチュール、たとえばシャンティイ城美術館の「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」やクルシウスの「本革書」、あるいはアルセナル図書館の「ヴァレール・マキシム」(5196番第357裏)や「ルノー・ド・キントーパン」(5072番第71裏)などにもみられるためである。 この時代特色は庭に関する著作がたくさ現われたことである。このことは、庭がフランス人の心のなかで、それ独白生命をもつものとなりはじめていたことがわかる。数多い著作のうち注目すべきものとしては、シャルル・エスティエンヌの『プレジディウム・ルステイクム=円舎の土地』や、アントワーヌ・ゾーの『園芸』(1576年)、ジャン・リボーの『田園住宅』(1583年)が挙がる。さらにフランスのもっともすぐれた城館とされるジャック・アンドルーエ・デュ・セルソーの図面集(1576年)などが出版されている。デュ・セルソーの図面はすべて実際にその地を訪れて描いたのであるとされるが、この図面から、そのころの庭のほとんどが、大きな四角花垣仕切られ市松模様になっていたことがよく分かる1600年出版されたオリグィユ・ド・セール『農業一覧』では、庭についてもいろいろと記述されている。また17世紀半ばになると、ドニフ・バロードリーの『庭園論』(1636年)や、アンドレ・モレの『庭の娯しみ』(1651年)など、専門家記述した庭園設計について多く出版させた。そこに述べられている庭園理論は、明らかにル・ノートルの才へと繋がるものであるモレその中で、「ファサード垂直な大きな並木道造ること、この並木道は必ず彫像または噴泉終わり、その始点、すなわち館の前面に、半円また方形大きな広場をとって、広い眺望を遮ぎるものが無いようにする」ことをすすめている。

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