フランス帝国時代のダルマチア
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「ダルマチア王国」の記事における「フランス帝国時代のダルマチア」の解説
ダルマチア占領後まもなく、ナポレオンはヴィンチェンツォ・ダンドロ将軍をダルマチア総督(Prov(v)editore Generale)に任命し(1806年4月28日に任命)、オーギュスト・マルモン将軍をダルマチア軍司令官に任命した(1806年6月12日に任命)。フランス領ダルマチアは、首都をミラノを置いていたイタリア王国と行政的に結びついていた。 1809年10月14日、シェーンブルンの和約によりイリュリア州が創設され、ダンドロ将軍を筆頭とするダルマチア政府(イタリア語: La Proveditura Generale )がザダルに置かれてイタリア語が公用語になった。ダルマチアの利権は、ミラノのイタリア王国中央政府で働いていたいわゆるダルマチア大臣によって(正式にのみ)提唱された。 イヴァン・ストラティコは長い間大臣を務めていた。ダルマチア政府は部門長が率いる6つの部門(司法、内務、財務、軍事、教育、会計)に分割され、さらには1人の警察監督官と1人の軍監督官がいた。それらすべては事務総長(イタリア語: Segretario Generale)が管轄していた。ダルマチア総議会(イタリア語: Consiglio Generale della Dalmazia )は諮問機関であり、地区の住民の数に応じて各地区から1人以上、政府によって選ばれた48人の議員で構成されていた。最初の議員は政府のみによって任命されたが、その後は毎年12人が辞任し、議会がリストを提案してそこから政府が12人の新しい候補者を選ぶという形式で任命した。議会では総督が議長を務め、ダルマチアの諸問題について議論していた。議会の決定は、総督の正式な認可後にのみ有効であった。 司法は行政から分離されていた。 全ての地区と特別重要な地域に22の地方裁判所(イタリア語: Giudici Locali o di Pace)があった。ザダル、スプリト、ドゥブロヴニクには、地方裁判所とすべての民事・刑事裁判の第一審裁判所の控訴先である高等裁判所が置かれた。さらに、裁判所の評決に対する控訴裁判所がザダルに置かれ、ミラノには最高裁判所(イタリア語: Tribunale di Cassazione)が置かれた。当初の意図はフランス民法典(ナポレオン法典)の導入であったが、特に財産、相続、婚姻問題における一般的な認識と慣習の違いのため実行不可能であることがすぐに明らかになった。したがって、フランスの法律に加えてオーストリアとヴェネツィアの法律も暗示されていた。法の下の平等もこのとき導入された。 ダルマチアは郡、地区、市、村に分けられた。具体的に述べると、ダルマチアはザダル、シベニク、スプリト、マカルスカの4つの郡に分割され、ザダル郡は6つ(ザダル、クルク、ツレス、ロシニ、ラブ、パグ)、シベニク郡は3つ(シベニク、スクラディン、クニン)、スプリット郡は5つ(スプリト、トロギル、シニ、ネレジシュチャ、フヴァル)、マカルスカ郡は3つ(マカルスカ、イモツキ、コルチュラ)の地区に分割された。郡は総監(イタリア語: Delegato )が、地区は副総監(イタリア語: Vice-delegato)が、市は市長が、村は長老(イタリア語: Capitani-anziani )が統治していた。1809年、ティルジットの和約でコトル湾がフランス領となってイリュリア州に編入されると、ドミニク・ガラグニンが特別総督に任命され、4つの郡(ツァヴタット、ストン、ロプド、コトル)と2つの地区(ヘルツェグ・ノヴィとブドヴァ)を統治した。 新たな領土管理機構は、ダルマチアで運用されてきたヴェネツィア型の統治機構を根本的に再定義した。ヴェネツィア時代の統治機構の一部の形態が保持され、たとえば総督の地位や、軍事用語では改革された国軍の機関名などが引き継がれた。しかしフランスによる統治の間、ダルマチアの経済的繁栄についてはあまり顧みられなかった。 フランス統治下でのダルマチア文化復興の最初の特徴は、二言語で書かれた週刊誌「Il Regio Dalmata – Kraglski Dalmatin」の発売であり、その創刊号は1806年7月12日に発行された。ダンドロ将軍が到着したときダルマチアには事実上学校がなかったため、特に教育に目が向けられた。また、フランスはクロアチア北部やボスニアの一部との道路接続を画策した。新たな道路の建設はおそらく軍事戦略上の利益(イギリスとロシアによるアドリア海の海上封鎖に関して)によるものであったが、それらは経済的目的でも使用された。多くのダルマチア人、特にフランシスコ会の下級聖職者は、フランスが実施したダルマチアの近代化政策によって自治体や企業に持っていた多くの特権を取り消したため、「無神論者とジャコバン派」がいるとしてフランス政府を嫌っていた。
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