フランス帝国時代のダルマチアとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > フランス帝国時代のダルマチアの意味・解説 

フランス帝国時代のダルマチア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 03:20 UTC 版)

ダルマチア王国」の記事における「フランス帝国時代のダルマチア」の解説

ダルマチア占領後まもなく、ナポレオンはヴィンチェンツォ・ダンドロ将軍ダルマチア総督(Prov(v)editore Generale)に任命し1806年4月28日任命)、オーギュスト・マルモン将軍ダルマチア軍司令官任命した1806年6月12日任命)。フランス領ダルマチアは、首都ミラノ置いていたイタリア王国行政的に結びついていた。 1809年10月14日シェーンブルンの和約によりイリュリア州創設されダンドロ将軍筆頭とするダルマチア政府イタリア語: La Proveditura Generale )がザダル置かれイタリア語公用語になったダルマチア利権は、ミラノイタリア王国中央政府働いていたいわゆるダルマチア大臣によって(正式にのみ)提唱された。 イヴァン・ストラティコは長い間大臣務めていた。ダルマチア政府部門長率い6つ部門司法内務財務軍事教育会計)に分割されさらには1人警察監督官1人軍監督官がいた。それらすべては事務総長イタリア語: Segretario Generale)が管轄していた。ダルマチア議会イタリア語: Consiglio Generale della Dalmazia )は諮問機関であり、地区住民の数に応じて各地区から1人以上、政府によって選ばれ48人の議員構成されていた。最初議員政府のみによって任命されたが、その後毎年12人が辞任し議会リスト提案してそこから政府12人の新し候補者を選ぶという形式任命した議会では総督議長務めダルマチア諸問題について議論していた。議会決定は、総督正式な認可後にのみ有効であった司法行政から分離されていた。 全ての地区と特別重要な地域22地方裁判所イタリア語: Giudici Locali o di Pace)があった。ザダルスプリトドゥブロヴニクには、地方裁判所すべての民事刑事裁判第一審裁判所控訴先である高等裁判所置かれた。さらに、裁判所評決対す控訴裁判所ザダル置かれミラノには最高裁判所イタリア語: Tribunale di Cassazione)が置かれた。当初意図フランス民法典ナポレオン法典)の導入であったが、特に財産相続婚姻問題における一般的な認識慣習違いのため実行不可能であることがすぐに明らかになった。したがってフランスの法律に加えてオーストリアヴェネツィア法律暗示されていた。法の下の平等もこのとき導入された。 ダルマチアは郡、地区、市、分けられた。具体的に述べると、ダルマチアザダルシベニクスプリトマカルスカ4つの郡に分割されザダル郡6つザダルクルク、ツレス、ロシニ、ラブパグ)、シベニク郡は3つシベニク、スクラディン、クニン)、スプリット郡は5つスプリトトロギルシニ、ネレジシュチャ、フヴァル)、マカルスカ郡は3つマカルスカイモツキコルチュラ)の地区分割された。郡は総監イタリア語: Delegato )が、地区副総監イタリア語: Vice-delegato)が、市は市長が、長老イタリア語: Capitani-anziani )が統治していた。1809年ティルジットの和約コトル湾フランス領となってイリュリア州編入されると、ドミニク・ガラグニンが特別総督任命され4つの郡(ツァヴタットストン、ロプド、コトル)と2つ地区ヘルツェグ・ノヴィブドヴァ)を統治した新たな領土管理機構は、ダルマチア運用されてきたヴェネツィア型の統治機構根本的に定義したヴェネツィア時代統治機構一部形態保持され、たとえば総督地位や、軍事用語では改革され国軍機関名などが引き継がれた。しかしフランスによる統治の間、ダルマチア経済的繁栄についてはあまり顧みられなかった。 フランス統治下でのダルマチア文化復興最初特徴は、二言語で書かれ週刊誌Il Regio Dalmata – Kraglski Dalmatin」の発売であり、その創刊号1806年7月12日発行された。ダンドロ将軍到着したときダルマチアには事実上学校がなかったため、特に教育に目が向けられた。また、フランスクロアチア北部ボスニア一部との道路接続画策した。新たな道路の建設はおそらく軍事戦略上の利益イギリスロシアによるアドリア海海上封鎖に関して)によるものであったが、それらは経済的目的でも使用された。多くダルマチア人、特にフランシスコ会下級聖職者は、フランス実施したダルマチア近代化政策によって自治体企業持っていた多く特権取り消したため、「無神論者ジャコバン派」がいるとしてフランス政府嫌っていた。

※この「フランス帝国時代のダルマチア」の解説は、「ダルマチア王国」の解説の一部です。
「フランス帝国時代のダルマチア」を含む「ダルマチア王国」の記事については、「ダルマチア王国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「フランス帝国時代のダルマチア」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランス帝国時代のダルマチア」の関連用語

1
ダルマチア王国 百科事典
4% |||||

フランス帝国時代のダルマチアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランス帝国時代のダルマチアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのダルマチア王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS