ヴェネツィア時代
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「フランチェスコ・グリフォ」の記事における「ヴェネツィア時代」の解説
グリフォは1470年代中ごろから、ヴェネツィアとの仕事上のつながりを持っていたと考えられる。15世紀の印刷・出版史において極めて重要な場所であるこの街の、高度な専門性や激しい出版競争の最中においても、グリフォの経験と技術は際立っていた。1490年代初頭まで彼がヴェネツィアのどの印刷所で働いていたかはわかっていないが、1475年にフランクフルトの商人ヨハン・ラウフファス(Johan Rauchfass)がジャンソンのローマン体を複製するために雇った「Franciscus de Bononia quondam Caesaris aurifex」(「かつてチェーザレの金細工師だったフランチェスコ・ダ・ボローニャ」の意)の正体がグリフォであったことは確かである。1480年代には、ヴェネツィア有数の出版人であったグレゴーリオ兄弟(英語版)に2種類のローマン体活字を提供しており、R.オロッコはこの活字がニコラ・ジャンソンのローマン体に酷似しているとする。その場合、1480年に死去したジャンソンから活字関係の機材を引き継いでいたアーゾラのアンドレア・トッレザーニのもとをグリフォが訪れていた可能性もある。 その後グリフォは、1494年から出版活動を始めていたアルドゥス・マヌティウスのアルド印刷所に入り、最初のイタリック体をはじめとする同印刷所の重要な書体の大部分、ローマン体活字、ギリシア語活字、ヘブライ語活字を製作した。マヌティウスは1501年に出版したウェルギリウス『牧歌』の序文において、「ギリシア語とラテン語の活字を彫るフランチェスコ・ダ・ボローニャの高い技術力」とグリフォの仕事を公に認め、賞賛している。しかし同年、マヌティウスがヴェネツィア共和国元老院の認可を得て、グリフォの彫ったイタリック体の印刷とギリシア語著作の出版を10年間独占する特権を得たことで、グリフォとの不和が生じた。自らの活字をアルド印刷所以外の印刷所にも提供していたグリフォは、この出来事によってヴェネツィア国内の出版業者や印刷業者との交渉力を失うこととなったためである。自分が搾取されたことに失望したグリフォは、1502年の冬にヴェネツィアを離れた。
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ヴェネツィア時代
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1329年から1339年のスカリジェリ家(ヴェローナ領主)支配後、市はヴェネツィア共和国に組み込まれ、共和国の初のイタリア本土領として有名になった。1318年以降、短期間だが大学が置かれた。ヴェネツィア支配は無数の恩恵をもたらした。しかし、トレヴィーゾはヴェネツィアの戦争に巻き込まれることが必須となった。1381年から1384年、市はオーストリア公に征服され支配された。そして1388年までカッラレシ家が同様に支配した。ヴェネツィアへ市が返還されると、市は防衛を強化し、現在も存在する城壁と塁壁の重厚なラインがもたらされた。これらは建築家ジョヴァンニ・ジョコンドの指揮のもとで1世紀かけて刷新され、城門のうち2つがロンバルディア様式で建てられた。多くの運河が複数の水車とともに開発された。これは主として地元でとれる穀物を脱穀するための水力を欲したからだった。水路は全て航行可能で、バルコーニ(船)がヴェネツィアからトレヴィーゾ港へ到着した。そこではリヴィエラ・サンタ・マルゲリータ沿いの旅行者には通行税が、荷揚げされた商品に対しては税金支払い義務が生じた。漁師は毎日トレヴィーゾの魚市場へ出す新鮮な魚をとることができた。現在も島は市の一部と2本の小さな橋でつながっている。
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ヴェネツィア時代
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1204年の第四次十字軍がコンスタンティノープルを陥落させ、ギリシャ本土での東ローマ支配が衰えると、クレタ島はボニファチオ・デ・モンフェラートへ与えられた。彼は逆に、100マルク銀貨でヴェネツィア共和国へ島を売ることにした。1252年、ヴェネツィア人はクレタ人をどうにかして打ち負かしたが、1263年に、競争相手のジェノヴァ共和国がクレタ人の支援を受け、マルタ伯エンリコ・ペスカトーレ(英語版)指揮のもと市を獲得した。この状態は1285年にヴェネツィアが奪還するまで続いた。ハニアは、地域のレクトル(行政監督職の将軍)の所在地に選ばれ、肥沃な農業地帯の突出した貿易中心地として繁栄を極めた。 ヴェネツィア支配は相対的に厳しく抑圧的だったが、ゆっくりと双方の関係は改善された。ヴェネツィアとの接触はクレタ文化とヴェネツィア文化との絡み合いを密接にしたが、クレタ人は自分たちのギリシャ正教会の伝統を失うことはなかった。市の名前はイタリア語でラ・カネア(La Canea)となり、要塞設備は強化され、このとき与えられたハニアの形態は現在もまだ残っている。一方で、1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、多くの聖職者たちや芸術家らがクレタ島へ逃れてきて、島でのギリシャ人の信仰と文化を一層強めた。東ローマ、ヴェネツィア、古代ギリシャの文化要素が混ざり合った時代の後にハニアは続いた。市にある多くの重要な建物はこの時代に建てられ、知識的な活動(文筆、音楽、教育)も奨励された。
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