ヴェネツィア時代とは? わかりやすく解説

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ヴェネツィア時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 03:08 UTC 版)

フランチェスコ・グリフォ」の記事における「ヴェネツィア時代」の解説

グリフォは1470年代中ごろから、ヴェネツィアとの仕事上のつながり持っていたと考えられる15世紀印刷出版史において極めて重要な場所であるこの街の、高度な専門性激し出版競争最中においても、グリフォの経験技術際立っていた。1490年代初頭まで彼がヴェネツィアのどの印刷所働いていたかはわかっていないが、1475年フランクフルト商人ヨハン・ラウフファス(Johan Rauchfass)がジャンソンのローマン体複製するために雇った「Franciscus de Bononia quondam Caesaris aurifex」(「かつてチェーザレ金細工師だったフランチェスコ・ダ・ボローニャ」の意)の正体がグリフォであったことは確かである。1480年代には、ヴェネツィア有数出版人であったグレゴーリオ兄弟英語版)に2種類ローマン体活字提供しており、R.オロッコはこの活字ニコラ・ジャンソンローマン体酷似しているとする。その場合、1480年死去したジャンソンから活字関係の機材引き継いでいたアーゾラのアンドレア・トッレザーニのもとをグリフォが訪れていた可能性もある。 その後グリフォは、1494年から出版活動始めていたアルドゥス・マヌティウスアルド印刷所入り最初イタリック体はじめとする印刷所重要な書体大部分ローマン体活字ギリシア語活字ヘブライ語活字製作したマヌティウス1501年出版したウェルギリウス『牧歌』序文において、「ギリシア語ラテン語活字を彫るフランチェスコ・ダ・ボローニャの高い技術力」とグリフォの仕事公に認め賞賛している。しかし同年マヌティウスヴェネツィア共和国元老院認可得て、グリフォの彫ったイタリック体印刷ギリシア語著作出版10年独占する特権得たことで、グリフォとの不和生じた。自らの活字アルド印刷所以外の印刷所にも提供していたグリフォは、この出来事によってヴェネツィア国内出版業者印刷業者との交渉力を失うこととなったためである。自分搾取されたことに失望したグリフォは、1502年の冬にヴェネツィア離れた

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ヴェネツィア時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 15:13 UTC 版)

トレヴィーゾ」の記事における「ヴェネツィア時代」の解説

1329年から1339年のスカリジェリ家(ヴェローナ領主支配後、市はヴェネツィア共和国組み込まれ共和国の初のイタリア本土領として有名になった。1318年以降短期間だが大学置かれた。ヴェネツィア支配は無数の恩恵もたらした。しかし、トレヴィーゾヴェネツィア戦争巻き込まれることが必須となった1381年から1384年、市はオーストリア公に征服され支配された。そして1388年までカッラレシ家が同様に支配したヴェネツィアへ市が返還されると、市は防衛強化し、現在も存在する城壁塁壁重厚なラインもたらされた。これらは建築家ジョヴァンニ・ジョコンドの指揮のもとで1世紀かけて刷新され、城門のうち2つロンバルディア様式建てられた。多く運河複数水車とともに開発された。これは主として地元でとれる穀物脱穀するための水力欲したからだった。水路全て航行可能で、バルコーニ(船)がヴェネツィアからトレヴィーゾ港へ到着した。そこではリヴィエラ・サンタ・マルゲリータ沿いの旅行者には通行税が、荷揚げされた商品に対して税金支払い義務生じた漁師毎日トレヴィーゾ魚市場へ出す新鮮なをとることができた。現在も島は市の一部と2本の小さな橋でつながっている。

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ヴェネツィア時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 05:51 UTC 版)

ハニア」の記事における「ヴェネツィア時代」の解説

1204年第四次十字軍コンスタンティノープル陥落させ、ギリシャ本土での東ローマ支配衰えると、クレタ島はボニファチオ・デ・モンフェラートへ与えられた。彼は逆に100マルク銀貨ヴェネツィア共和国へ島を売ることにした。1252年ヴェネツィア人クレタ人どうにかして打ち負かしたが、1263年に、競争相手ジェノヴァ共和国クレタ人支援を受け、マルタ伯エンリコ・ペスカトーレ(英語版指揮のもと市を獲得した。この状態は1285年ヴェネツィア奪還するまで続いたハニアは、地域のレクトル(行政監督職の将軍)の所在地選ばれ肥沃な農業地帯の突出した貿易中心地として繁栄極めたヴェネツィア支配相対的に厳しく抑圧的だったが、ゆっくりと双方の関係は改善された。ヴェネツィアとの接触クレタ文化ヴェネツィア文化との絡み合いを密接にしたが、クレタ人自分たちのギリシャ正教会伝統を失うことはなかった。市の名前イタリア語でラ・カネア(La Canea)となり、要塞設備強化され、このとき与えられハニア形態は現在もまだ残っている。一方で1453年東ローマ帝国滅亡すると、多く聖職者たちや芸術家らがクレタ島逃れてきて、島でのギリシャ人信仰文化を一層強めた東ローマヴェネツィア古代ギリシャ文化要素混ざり合った時代の後にハニア続いた。市にある多く重要な建物はこの時代建てられ知識的な活動文筆音楽教育)も奨励された。

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