ヴェネツィア式外交術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 00:15 UTC 版)
「ポルトガル・マムルーク海上戦争」の記事における「ヴェネツィア式外交術」の解説
マムルーク朝は再びポルトガルに対抗するためにヴェネツィアの助力を得ようとした。この関係を守るため、教皇に対しても外交的な働きかけを行った。 オスマン・ヴェネツィア戦争 (1499年-1503年)(英語版)のアンドレア・グリッティによる1503年の平和条約の署名以来、オスマン帝国と平和を維持していたヴェネツィアは、オスマン帝国との平和を維持し続け、1511年に平和条約を更新した。オスマン帝国は、ポルトガルとの紛争でマムルーク朝に加担することになった。 条約によって、ヴェネツィアが保有するキプロスなどの地中海の港をオスマン帝国が利用できるようになった。 ヴェネツィアはまたカンブレー同盟戦争でのオスマン帝国の支持を要請したが、こちらは無駄だった。 1513年、マムルーク朝とベネチア間の商業協定がカイロでドメニコ・トレヴィザン(イタリア語版)大使によって署名された。
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