ヴェネツィア共和国のドゥカート金貨
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「ドゥカート」の記事における「ヴェネツィア共和国のドゥカート金貨」の解説
1200年代のヴェネツィアの貿易は、東方から買い付けた物品をアルプス以北で販売するという形態であった。彼らはこの買い付けの際にビザンツ帝国の金貨を使用していたが、ビザンツ皇帝のミカエル8世パレオロゴスが1282年のシチリアの晩祷と呼ばれる暴動を支援した結果、ヒュペルピュロンの価値は低下した。これは、繰り返されるヒュペルピュロンの価値低下の一例に過ぎず、1284年にヴェネツィア共和国大評議会(イタリア語版、英語版)は純金製の独自の硬貨を発行する事でこれに対応した。 フィレンツェ共和国とジェノヴァ共和国はどちらも1252年に金貨を発行(フィレンツェのフィオリーノ金貨と、ジェノヴァのジェノヴィーノ金貨(英語版))しており、特にフィオリーノ金貨はヨーロッパの金貨のスタンダードになっていった。ヴェネツィアは彼らのドゥカートをフィオリーノのサイズや重量に準じたものにしたが、両国の度量衡制度が異なっていた為、重量には僅かに差が有った。ヴェネツィアのドゥカートは99.47%純度の金を3.545グラム含んでいたが、これは当時の冶金技術で精製できる最高峰の純度であった。 ドゥカート金貨はドゥカート銀貨に、突き詰めればビザンツの銀貨に由来する。表面には、ヴェネツィア共和国の守護聖人である聖マルコの御前でひざまずくドージェの姿が示されている。聖マルコは福音書を手にしており、ドージェにゴンファローネ(英語版)を授けている。左側の銘"S M VENET"は"Sanctus Marcus VENETI"(「ヴェネツィアの聖マルコ」の意。)の頭字語で、右側の銘"MICAEL STEN"はドージェの名前(ミケーレ・ステーノ(英語版))を表している。名前の隣には、彼の称号のDVXが示されている。裏面には、星々を背景に立つキリストの姿が楕円の枠内に描かれている。裏面の銘はルッジェーロ2世のドゥカートに刻印されているものと同様である。 後継のドージェ達もドゥカートの鋳造を続け、手を加えたのは表面の彼らの名前だけであった。1400年代、ドゥカートの価値は銀貨換算で124ヴェネツィアソルドと安定していた。この事からドゥカートという単語は次第に、金貨そのものだけでなく、この量の銀貨を表す言葉としても使われるようになった。しかし、1567年のイングランド王国とスペイン帝国の衝突により金の価格は騰貴し、この均衡は崩された。この時点で、ドゥカートは"ducato de zecca"(「造幣所のドゥカート」の意。)と呼ばれており、これが短縮して"zecchino"、更に転訛して"Sequin"と呼ばれるようになった。レオナルド・ロレダンは新たに2分の1ドゥカートを鋳造し、彼の次代のドージェであるアントニオ・グリマーニ(イタリア語版)は更に4分の1ドゥカートや105ドゥカートなどの多様な硬貨の鋳造を行った。こうした硬貨は全て1284年の元々のドゥカートのデザインや重量を受け継いで作られていた。西洋の鋳造貨幣において鋳造時期の刻印が一般的になった後も、ヴェネツィアは1797年のナポレオン・ボナパルトへの降伏まで日付の刻印が無いドゥカートの鋳造を続けた。
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