ヴェネツィア支配の確立
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「ヴェネツィア領クレタ」の記事における「ヴェネツィア支配の確立」の解説
ジャコモ・ティエポロ(Giacomo Tiepolo)はクレタ公(カンディア公、duca di Candia)の称号を得てカンディアに拠点を置き、この新しい州(province)の初代総督となった。クレタ島におけるヴェネツィアの支配を強化するべく、ティエポロは本国から植民者を送り、ヴェネツィア人植民者たちには土地が分与する代わりに軍役につく案を提案した。この案は承認され、1211年9月10日にヴェネツィアでこれに関連した憲章である「Carta Concessionis」が宣言された。騎士(militesまたはcavaleri)として奉職する132人の貴族と45人の富裕市民(pedites、sergentesとなる)がこの最初の植民に参加し、1212年3月20日にヴェネツィアを出発した。更に1222年、1233年、そして1252年の3回、植民者たちが送り込まれ、後年も移民は不規則な形態で継続した。総計で約10,000人のヴェネツィア人が、クレタ島ヴェネツィア領有後の最初の1世紀の間に移住したと推定されている。当時ヴェネツィア本国自体の人口は約60,000人であった。1252年の植民の結果、長く放棄されていた古代都市キュドニアの跡地にカネア(Canea、現在のハニア)が創始された。ヴェネツィア人はクレタ島を利益率の高い東方貿易の拠点とし、植民者に封地を分配した。また、食料と原材料の生産に特化した農業生産体制を敷き、近代の植民地帝国とも似た生産と流通の分業体制を構築した。クレタ島の輸出品は第一にコムギとデザートワイン(マルヴァジア)であり、量はそれに劣るが木材やチーズなどもあった。 ヴェネツィアのクレタ島支配は現地人の敵意に遭遇して当初から問題を抱えていた。中世史学者ケネス・セットン(英語版)の言葉を借りれば、ヴェネツィアは「この島を確保するために、絶え間ない用心と人的資源および資金の大規模な投入を必要とした。」。ヴェネツィア支配下において、少なくとも大小合わせて27回の反乱または陰謀が記録されている。貴族と民衆の双方によって構成される現地のギリシア人(クレタ人)は、独自の法律を持ち財産も維持することを許されていたが、ラテン人の支配およびラテン系ヴェネツィア人エリートとの間の激しい差別に憤慨していた。ヴェネツィア人エリートたちはクレタ島の行政府と軍関係の高位職を独占しており、クレタ島を経由する商業取引の利益の大部分を手にしていた。ヴェネツィア支配時代の初期の間、ヴェネツィア人植民者は意識的に現地人から離れて居住しており、13世紀の終わりまで、現地クレタ人とヴェネツィア人の結婚さえ禁じられていた。
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