ヴェネツィア支配の確立とは? わかりやすく解説

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ヴェネツィア支配の確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 17:31 UTC 版)

ヴェネツィア領クレタ」の記事における「ヴェネツィア支配の確立」の解説

ジャコモ・ティエポロGiacomo Tiepolo)はクレタ公(カンディア公、duca di Candia)の称号得てカンディア拠点を置き、この新しい州(province)の初代総督となったクレタ島におけるヴェネツィア支配強化するべく、ティエポロ本国から植民者送りヴェネツィア人植民者たちには土地分与する代わりに軍役につく案を提案した。この案は承認され1211年9月10日ヴェネツィアでこれに関連した憲章である「Carta Concessionis」が宣言された。騎士(militesまたはcavaleri)として奉職する132人の貴族45人の富裕市民(pedites、sergentesとなる)がこの最初植民参加し1212年3月20日ヴェネツィア出発した。更に1222年1233年、そして1252年3回植民者たちが送り込まれ後年移民不規則な形態継続した総計で約10,000人のヴェネツィア人が、クレタ島ヴェネツィア領有後の最初1世紀の間に移住した推定されている。当時ヴェネツィア本国自体人口は約60,000であった1252年植民結果長く放棄されていた古代都市キュドニアの跡地にカネア(Canea、現在のハニア)が創始された。ヴェネツィア人クレタ島利益率の高い東方貿易拠点とし、植民者封地分配したまた、食料原材料生産特化した農業生産体制敷き近代植民地帝国とも似た生産と流通分業体制構築したクレタ島輸出品第一にコムギデザートワインマルヴァジア)であり、量はそれに劣るが木材チーズなどもあった。 ヴェネツィアクレタ島支配現地人敵意遭遇して当初から問題抱えていた。中世史学者ケネス・セットン(英語版)の言葉借りれば、ヴェネツィアは「この島を確保するために、絶え間ない用心人的資源および資金大規模な投入を必要とした。」。ヴェネツィア支配下において、少なくとも大小合わせて27回の反乱または陰謀記録されている。貴族民衆双方によって構成される現地ギリシア人クレタ人)は、独自の法律持ち財産維持することを許されていたが、ラテン人支配およびラテン系ヴェネツィア人エリートとの間の激し差別憤慨していた。ヴェネツィア人エリートたちはクレタ島行政府と軍関係の高位職を独占しており、クレタ島経由する商業取引利益大部分を手にしていた。ヴェネツィア支配時代初期の間、ヴェネツィア人植民者意識的に現地人から離れて居住しており、13世紀終わりまで、現地クレタ人ヴェネツィア人結婚さえ禁じられていた。

※この「ヴェネツィア支配の確立」の解説は、「ヴェネツィア領クレタ」の解説の一部です。
「ヴェネツィア支配の確立」を含む「ヴェネツィア領クレタ」の記事については、「ヴェネツィア領クレタ」の概要を参照ください。

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