第4回十字軍とヴェネツィア支配の確立
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「クレタ島の歴史」の記事における「第4回十字軍とヴェネツィア支配の確立」の解説
「第4回十字軍」、「ラテン帝国」、および「フランコクラティア」も参照 1202年、エジプトのイスラーム勢力を攻撃するために西欧各地からヴェネツィアに集結した十字軍は渡航費用を捻出できず、それを獲得するためにダルマツィアのザラを占領した。同時期にビザンツ帝国で帝位を追われたイサキオス2世の息子アレクシオス(4世)は父親の帝位奪還に協力することをザラにいた十字軍に依頼し、その結果十字軍は帝都コンスタンティノープルへと向かった。結果としてコンスタンティノープルは十字軍によって占領されビザンツ帝国は一時滅亡した。十字軍の指導者たちとヴェネツィアは「ビザンツ領分割についての取り決め(英語版)」を結び、ビザンツ帝国領の4分の1がラテン帝国に、残る4分3の半分ずつが他の諸侯とヴェネツィアのそれぞれに割り当てられた。クレタ島はこの取り決めでモンフェッラート侯ボニファッチョ1世の所領となった。しかしボニファッチョ1世は書類上のクレタ島に対する権利を実際にはほとんど行使することができず、テッサロニキの確実な確保に注力することを決定し、この島の権利をヴェネツィアに売却した。ヴェネツィアはジャコモ・ティエポロをクレタ公(カンディア公、duca di Candia)として島の統治者に任じたが、ジェノヴァ人もまたクレタ島の支配を狙っていた。ジェノヴァはヴェネツィア人に先んじて拠点を置いており、マルタ伯(英語版)エンリコ・ペスカトーレ(英語版)とアラマンノ・デ・コスタ(英語版)の指揮で一時的に勝利を収めたが、最終的に1212年にヴェネツィアが島をほぼ制圧し、1217年には一部で抵抗を続けていたジェノヴァの残党も降伏し、クレタ島を巡るヴェネツィアとジェノヴァの戦いは決着がついた。首都の陥落と長きにわたる海軍の弱体化のためにビザンツ勢力はこの間何らクレタ島の動向に関与することができておらず、クレタ島と深い関係を持っていたコムネノス一門のコントステファノス家も最後のビザンツ帝国のクレタ公(ドゥークス)であったニケフォロス・コントステファノスが小アジアへ逃げ延びるとともにクレタ島の歴史から姿を消した。 ヴェネツィアは1211年にクレタ島を本国のコムーネが統治するカンディア市周辺部と本国にならった6つの管区(セスティエーリ(英語版))に区分した。それぞれの管区にはヴェネツィア本国の管区と同じ名前が与えられ、本国から植民者が送り込まれた(この6区制は14世紀には4区に改められた)。1211年を皮切りに13世紀の間繰り返し入植に関する布告が出され、ヴェネツィア人入植者たちは本国に対する忠誠と軍役の負担を条件にクレタ島に封地を与えられた。この植民は相当数の市民が参加する国家的プロジェクトとして実施され、12世紀半ばまでに3,500人あまりのヴェネツィア人入植者がクレタ島に定着した。当時のヴェネツィア本国の約60,000人という人口から見ればこれはかなりの数である。受封した入植者を統制するため、貴族出身の受封者は首都カンディアにも住居を持つこと、大受封者はカンディアに居住することが定められ、本国の組織と同様の大評議会(英語版)が受封者たちによって形成された。
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