ヴェネツィア本島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/05 14:27 UTC 版)
「ヴェネツィア・ゲットー」の記事における「ヴェネツィア本島」の解説
1516年にヴェネツィア本島の西北部カンナレジオ地区の新鋳造所跡にユダヤ人居住区が建設され、ヴェネツィアのユダヤ人はここに移住を強制された。鋳造所はヴェネツィア語で「Getto」といい、これがユダヤ人居住区を意味する「ゲットー(Ghetto)」の単語の語源になったといわれている。現在このゲットーは「新ゲットー」(Ghetto Nuovo)と呼ばれる地域になっている。新ゲットーは四方運河に囲まれており、高い塀がめぐらされ、外向きの窓はすべて煉瓦でふさがれていた。設立当初の新ゲットーの人口は700人ほどとみられる。 1538年には隣接する旧鋳造所跡にもユダヤ人の居住が認められ、1541年にはここがゲットー化した。これが現在「古ゲットー」(Ghetto Vecchio)と呼ばれている地域である(新旧はゲットーが建設される前の鋳造所についてのことであり、ゲットーとしての成立は新ゲットーの方が古ゲットーより古い事に注意)。 新ゲットーが創設された当初は住民の大多数が神聖ローマ帝国(ドイツ)ユダヤ人で、土着のヴェネツィア(イタリア)ユダヤ人はわずかであったという。しかしこの後、イスラム圏ユダヤ人(レバンティニ。東方ユダヤ人・東地中海ユダヤ人)とスペイン・ポルトガル系(ポネンティニ)ユダヤ人も増えた。 イスラム圏ユダヤ人はヴェネツィア共和国にとって東方貿易における経済的ライバルであったので、初めヴェネツィア共和国はイスラム圏ユダヤ人の商品の運搬を自国船に禁止していた。しかし後にこれが解禁され、更にローマ教皇が宿敵のイスラム教徒との交易を禁止するようになるとヴェネツィア共和国にとってイスラム圏ユダヤ人との交易が重要なものになった。そのため、やがて彼らのヴェネツィア共和国居住も認められるようになったのであった。 スペイン・ポルトガル系ユダヤ人は、イベリア半島におけるキリスト教国のイスラム教国への再征服の後の1492年から16世紀初頭にかけてスペイン(カスティーリャ王国やアラゴン王国)やポルトガル王国で異端審問が激化したため、モロッコなどを経由してヴェネツィアへ逃れてきたユダヤ人である。 最盛期にはゲットーの人口は5,000人に達したという。ゲットー住民たちは、主に神聖ローマ帝国系、イスラム圏系、スペイン・ポルトガル系でグループを形成し、それぞれ別個のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)とスコラ(教学館)を持ち、別々の風習・言語があった。住民の職業は商業、金融、医師、船員、外交関係、通訳などが多かった。
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