フランス統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 10:15 UTC 版)
「アンリ3世 (フランス王)」の記事における「フランス統治」の解説
帰国後にフランス王位を継いだアンリは、王母カトリーヌと共に難局にある国政を指導することになった。カトリックとプロテスタントとの激しい対立構図が基調にはあったが、宮廷内の複雑な権力関係が新たな火種を生むようになった。カトリーヌに軽んじられていた王弟アンジュー公エルキュール・フランソワが南方のプロテスタントと組んで一時的に国王に反旗を翻したため、苦境に立ったアンリは1576年、ボーリュー勅令によってパリ城内を除くフランス全土でのプロテスタントの公的礼拝を許すことになった。しかし今度は過激派のカトリック貴族がカトリック同盟を結成してボーリュー勅令を廃止に追い込んだ。これに対してナバラ王アンリを盟主とするプロテスタントが蜂起した(第6次ユグノー戦争)が、カトリック側から味方になる者はおらず、1577年のベルジュラックの和約ではユグノー側への宗教的寛容が大きく制限された。これに不満な一部の急進派プロテスタントはコンデ公アンリを担いで反乱を再発させた(第7次ユグノー戦争)が失敗に終わって、王国内には一時的に平和が訪れた。 1584年、王弟アンジュー公が亡くなると、サリカ法に基づきナバラ王アンリが筆頭王位継承者となった。このことは反プロテスタント感情を再び高め、パリ市民の強い支持を得たギーズ公アンリ率いるカトリック同盟が1585年3月に北フランスの主要都市を占拠する軍事行動に出た(第8次ユグノー戦争 / 三アンリの戦い)。アンリ3世は面目を守るためにカトリック同盟の盟主となり、彼らの意に従ってナバラ王のフランス王位継承資格を奪い、プロテスタントに改宗を強制する七月勅令を発した。これに対してプロテスタント側はナバラ王を指導者として戦うことを決め、イングランド、デンマークなどのプロテスタント諸国の支援を取り付けた。また穏健なカトリック教徒たちも、ガリカニスムの伝統を無視するカトリック同盟のローマ教皇との結び付きを危険視し始めた。
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