七月勅令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 12:29 UTC 版)
詳細は「七月勅令(英語版)」および「七月革命」を参照 正式には、フランスは1814年憲章により立憲君主国となっていた。国王は執行権を独占するなど政策決定上の広範な権限を保持していたが、法規命令の発令には原則として議会の同意や立法を要した。また、憲章は代議院議員の選挙方法、院内での権限、院内多数派の権限などを定めた。1830年に深刻な問題に直面したシャルル10世は、憲法の壁と代議院で多数派を形成した自由主義者とに阻まれて政策を維持できなくなり、窮余の一策に打って出た。 1830年3月、自由主義者が政府への不信任を採決すると国王は行動を起こし、緊急勅令による超法規的措置に取り掛かった。すなわち、 代議院の解散 出版の自由の制限 選挙人を最富裕層に限定する選挙法改正 新選挙法による再選挙の早期実施 を命じる4つの勅令を発した(七月勅令(英語版))。 国王の意向は早くから広まっていた。1830年7月10日、まだ国王が勅令案を作成している最中、アドルフ・ティエールを筆頭に資産家、自由主義的なジャーナリスト、新聞社のオーナーの一団がパリに集まり、シャルル10世への反対攻勢のための戦略を決めた。これは革命の約3週間前の出来事であるが、来るべき勅令発布の際にはパリの報道機関が国王の政策を辛辣に批判する記事を書き、大衆動員を図るべきことが決められた。こうして、1830年7月25日にシャルル10世が勅令を発すると、自由主義的な報道機関はシャルル10世の暴政を公然と非難する記事を発行した。 パリ民衆は愛国心と経済的苦境に突き動かされ、バリケードを築いて国王政府の基幹施設を襲撃し、数日のうちに事態は国王政府の手に負えなくなるまでに発展した。国王が自由主義的な定期刊行物の発行禁止に動いたため、急進的なパリ民衆はこれらの出版を守り、さらに親国王派の出版に対する攻撃を始め、国王政府の強権政治体制を麻痺させた。この機会をとらえて、議会内の自由主義者は国王に対する抗議や非難の決議案を作成し始めた。 1830年7月30日、ついに国王の廃位が宣言された。8月2日、国王が退位文書に署名してから20分後に王太子のアングレーム公爵ルイ・アントワーヌが王位継承権を放棄したため、名目上、20分間のフランス国王ルイ19世とされることがある。名目上の王位は、ルイ・アントワーヌの甥でシャルル10世の孫にあたるボルドー公爵が継承し「アンリ5世」となったが、これに先立つ7月30日、代議院は王位が空位であることを宣言してオルレアン公爵ルイ=フィリップを王国総代理官に指名しており、8月9日にはルイ=フィリップをそのまま国王に推戴した。こうして七月王政が始まった。
※この「七月勅令」の解説は、「フランス復古王政」の解説の一部です。
「七月勅令」を含む「フランス復古王政」の記事については、「フランス復古王政」の概要を参照ください。
- 七月勅令のページへのリンク