フランス絶対王政の変質
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「フランス絶対王政の変質」の解説
フランスでは、数多くの啓蒙思想家が現れたにもかかわらず絶対王政はほとんど「啓蒙」的様相をみせなかった。晩年の「太陽王」ルイ14世は、ジャンセニスムを排斥した1713年の「ウニジェストゥス」(ウニゲニトゥス、「(神の)独り子」の意味)と通称される教皇勅書の方針を施行したが、パリ高等法院はこれに反対した。エリート層に多いジャンセニストは不安な状態にあり、プロテスタントへの迫害も引き続きおこなわれた。 1715年、ルイ14世が死去し、わずか5歳の曾孫ルイ15世が王位についた。摂政となったのはルイ14世の甥で、自由思想家(リベルタン)として知られるオルレアン公フィリップ2世であった。パリ高等法院は幼帝即位に際してオルレアン公が摂政の地位につくよう骨を折り、高等法院は先王によって剥奪されていた王令登録権と建白権を回復した。高等法院が拒否すれば王令は法としての効力をもてなくなり、「太陽王」のもとで押さえつけられていた高等法院は強力な権限を奪回し、以後は革命期までさまざまな局面で王権と対立した。同様に貴族も発言力を復活させていき、官僚機構も強大化する一方で国王は政治にうとくなって華麗な宮廷の社交生活に浸るようになり、フランス絶対王政は全体として沈滞ぶりが目につくようになった。1723年、ルイ15世は成年に達して摂政時代は終わり、以後は半世紀におよぶ長い治世となるが、事実上の宰相の地位にあったアンドレ=エルキュール・ド・フルーリーの支えもあり、治世前半はある程度の安定性がみられた。1730年、フランス王権は反ジャンセニスムの「ウニジェストゥス」回勅を「教会と国家の法」とするよう高等法院に強要したが、ジャンセニスム的傾向をもつ一部の聖職者とパリ高等法院法官たちのなかには回勅採用の方針以来、王権への不満がつのっていた。ジャンセニスムは18世紀に入るとエリート層のみならず民衆層にも熱狂的な支持者を増やしており、それゆえジャンセニスム問題はさまざまな不平や不満を反王権という形式で吸収し、結晶化させる役割を果たした。 1743年にフルーリーが死去して本格的な国王親政が始まったが、当初に人々がルイ15世に抱いていた期待はすぐ失望に変わった。1740年に始まったオーストリア継承戦争でフランス軍は軍事的には優位に立っていたにもかかわらず、1748年のアーヘンの和約では得るところがほとんどなかったからである。宮中にあっても国王の愛人ポンパドゥール夫人が国政に介入して宮廷が権力をめぐる派閥抗争の場になったことも、不評であった。1746年、反ジャンセニスム派のクリストフ・ド・ボーモンがパリ大司教となると、彼の命令で「ウニジェストゥス」を受け入れない者には終油の秘蹟を拒否する事件が続発した。これに対して高等法院は国王政府の宗教政策を弾劾し、激しい政治対立が生じた。 18世紀半ばのフランスでは、「世論」の登場によって政治の構造が変化しつつあった。従来、王権はいわば「公共性」を独占してきたが、この時期になって国家から自律した新しい公共空間が印刷物の増加や情報伝達のネットワークの形成、社会的結合関係の変化などによって形成されていき、重要性を増していたのである。1754年、ボーモンは高等法院から流罪の処分を受けた。上述の1760年代のカラス事件もまた、ヴォルテールが新しい公共空間というべき「世論」に強く働きかけた結果の逆転無罪であった。1763年、パリ高等法院はウルトラモンタニズムを主張してきたイエズス会を事実上、フランス国内から追放した。なお、イエズス会に対する批判は啓蒙主義が一定の影響力をもった他の諸国でも同様であり、1773年に教皇クレメンス14世はやむなくイエズス会の解散を命令している。 王権と高等法院の対立は宗教問題に限らなかった。1749年、国王政府の開明官僚は特権身分の課税を狙いとする20分の1税の新設など財政改革を進めようとしたが、既得権益の保護に努める高等法院や特権階級の妨害によって成果をあげられなかった。当時のフランスには最高裁判所の役割を果たす法院が合計13、財政問題を審議する法院が25あり、高等法院の官職を購入した者たちは罷免されることがなかった。高等法院は建白権によって法令に対する反対意見を表明することができるほか、登録拒否によって王令の執行を遅らせることができた。1756年に始まった七年戦争では、長年ライバル関係にあったハプスブルク家からヨーゼフ2世の妹マリー・アントワネットを王子ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)の妃に迎えてオーストリアと同盟を結び(外交革命)、新興プロイセンと仇敵イギリスを相手に戦ったが、これはフランスにとって各地で敗れて植民地を奪われるなど、惨たんたる結果に終わった。1766年、ルイ15世は、修道院改革を目的とした5人の大司教と5人の俗人から成る宗務委員会を発足させたが、これはルイ16世時代の1788年に教皇庁の許可も所属司教の同意もない状態で9つの修道会の解散を命じ、他の修道会も衰退の一途をたどっていった。一方、フランス国内の司教はすべて貴族出身であり、地方の僧侶の生活は一切かえりみられなかったので、聖職者のなかにも貧困層が広がっていた。革命の際には、フランスの教会は貴族階級との長年の込み入った関係のために大損壊の被害をこうむった。 オーストリア継承戦争と七年戦争の不首尾によって王の威信は深く傷ついたが、この2つの戦争によって財政状況も悪化の一途をたどった。大法官ルネ=ニコラ・ド・モプー(フランス語版、英語版)は、1771年より司法官職の売官制廃止や高等法院管区の分割などによって高等法院の再編成に取り組んでいる。これは反抗的な高等法院を馴致させて近代的官吏へ転身させることを目的としたものであったが、1774年にモプーに一定の支持を与えていたルイ15世が没するとモプーは失脚し、高等法院改革は挫折した。
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