フランス絶対王政の変質とは? わかりやすく解説

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フランス絶対王政の変質

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「フランス絶対王政の変質」の解説

フランスでは数多く啓蒙思想家現れたにもかかわらず絶対王政はほとんど「啓蒙的様相をみせなかった。晩年の「太陽王ルイ14世は、ジャンセニスム排斥し1713年の「ウニジェストゥス」(ウニゲニトゥス、「(神の)独り子の意味)と通称される教皇勅書方針施行したが、パリ高等法院はこれに反対した。エリート層に多いジャンセニスト不安な状態にあり、プロテスタントへの迫害引き続きおこなわれた1715年ルイ14世死去し、わずか5歳曾孫ルイ15世王位についた摂政となったのはルイ14世の甥で、自由思想家リベルタン)として知られるオルレアン公フィリップ2世であったパリ高等法院幼帝即位に際してオルレアン公摂政地位につくよう骨を折り高等法院先王によって剥奪されていた王令登録建白回復した高等法院拒否すれば王令は法としての効力をもてなくなり、「太陽王」のもとで押さえつけられていた高等法院強力な権限奪回し以後革命期までさまざまな局面王権対立した同様に貴族発言力復活させていき、官僚機構強大化する一方で国王政治うとくなって華麗な宮廷社交生活に浸るようになり、フランス絶対王政全体として沈滞ぶりが目につくようになった1723年ルイ15世成年達して摂政時代終わり以後半世紀におよぶ長い治世となるが、事実上宰相地位にあったアンドレ=エルキュール・ド・フルーリー支えもあり、治世前半ある程度安定性がみられた。1730年フランス王権は反ジャンセニスムの「ウニジェストゥス」回勅を「教会国家の法」とするよう高等法院強要したが、ジャンセニスム傾向をもつ一部聖職者パリ高等法院法官たちのなかには回勅採用方針以来王権への不満がつのっていた。ジャンセニスム18世紀に入るとエリートのみならず民衆層にも熱狂的な支持者増やしており、それゆえジャンセニスム問題さまざまな不平や不満を反王権という形式吸収し結晶化させる役割果たした1743年フルーリー死去して本格的な国王親政始まったが、当初人々ルイ15世抱いていた期待はすぐ失望変わった1740年始まったオーストリア継承戦争フランス軍軍事的に優位に立っていたにもかかわらず1748年アーヘンの和約では得るところがほとんどなかったからである。宮中にあって国王愛人ポンパドゥール夫人国政介入して宮廷権力をめぐる派閥抗争の場になったことも、不評であった1746年、反ジャンセニスム派のクリストフ・ド・ボーモンパリ大司教となると彼の命令で「ウニジェストゥス」を受け入れない者には終油の秘蹟拒否する事件続発した。これに対して高等法院国王政府宗教政策弾劾し激し政治対立生じた18世紀半ばフランスでは、「世論」の登場によって政治構造変化しつつあった。従来王権はいわば「公共性」を独占してきたが、この時期になって国家から自律した新しい公共空間印刷物増加情報伝達ネットワークの形成社会的結合関係の変化などによって形成されていき、重要性増していたのである1754年ボーモン高等法院から流罪処分受けた上述1760年代カラス事件また、ヴォルテール新しい公共空間というべき「世論」に強く働きかけ結果逆転無罪であった1763年パリ高等法院ウルトラモンタニズム主張してきたイエズス会事実上フランス国内から追放した。なお、イエズス会対す批判啓蒙主義一定の影響力をもった他の諸国でも同様であり、1773年教皇クレメンス14世やむなくイエズス会解散命令している。 王権高等法院対立宗教問題に限らなかった。1749年国王政府開明官僚特権身分課税狙いとする20分の1税の新設など財政改革進めようとしたが、既得権益保護努め高等法院特権階級妨害によって成果あげられなかった。当時フランスには最高裁判所役割を果たす法院合計13財政問題審議する法院25あり、高等法院官職購入した者たちは罷免されることがなかった。高等法院建白によって法令対す反対意見表明することができるほか、登録拒否によって王令の執行遅らせることができた。1756年始まった七年戦争では、長年ライバル関係にあったハプスブルク家からヨーゼフ2世の妹マリー・アントワネット王子ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)の妃に迎えてオーストリア同盟を結び(外交革命)、新興プロイセン仇敵イギリス相手戦ったが、これはフランスにとって各地敗れて植民地奪われるなど、惨たんたる結果終わった1766年ルイ15世は、修道院改革目的とした5人の大司教と5人の俗人から成る宗務委員会発足させたが、これはルイ16世時代1788年教皇庁許可所属司教同意もない状態で9つ修道会解散命じ、他の修道会衰退一途たどっていった。一方フランス国内の司教はすべて貴族出身であり、地方僧侶の生活は一切かえりみられなかったので、聖職者なかにも貧困層広がっていた。革命の際には、フランス教会貴族階級との長年込み入った関係のために大損壊の被害こうむったオーストリア継承戦争と七年戦争不首尾によって王の威信深く傷ついたが、この2つ戦争によって財政状況悪化一途たどった大法官ルネ=ニコラ・ド・モプー(フランス語版英語版)は、1771年より司法官職の売官制廃止高等法院管区分割などによって高等法院再編成取り組んでいる。これは反抗的な高等法院馴致させて近代的官吏転身させることを目的したものであったが、1774年モプー一定の支持与えていたルイ15世没するモプー失脚し高等法院改革挫折した

※この「フランス絶対王政の変質」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「フランス絶対王政の変質」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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