摂政時代とは? わかりやすく解説

摂政時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/19 18:33 UTC 版)

摂政時代
1795年/1811年-1837年/1820年
君主
指導者
年表
ジョージアン時代 ヴィクトリア朝

摂政時代(せっしょうじだい、英語: Regency eraRegency periodまたは単にRegency)は、イギリスにおいてジョージ3世が統治不能に陥り、息子の王太子ジョージ摂政王太子として統治した時期を指す。ジョージ3世が1820年に崩御すると、摂政王太子はジョージ4世として即位した。「摂政時代」は正式な摂政時期である1811年から1820年までのほか、より広くジョージ3世の治世の後半である1795年からジョージ4世の跡を継いだウィリアム4世が崩御する1837年を指すこともある。その場合にはジョージ4世とウィリアム4世の治世も摂政時代に含まれる。摂政時代にはイギリスの建築英語版文学英語版ファッション英語版、政治、文化で特徴的なトレンドが見られた。摂政時代は1837年にウィリアム4世が死去、ヴィクトリア女王が即位したことで終結した。

摂政時代の社会

摂政時代はその美術と建築の優雅さ、および両領域における業績で知られている。この時代は社会、政治、経済における大変革の時期であり、ナポレオン・ボナパルトなどとの戦争は本国とヨーロッパ諸国の経済と政治に影響を与えた。ナポレオン戦争に伴う殺戮があったが、同時に文化的に大きく進歩した上品な時代とされ、イギリス全体の社会構造を変えた。

摂政王太子(後のジョージ4世)自身も美術と建築のパトロンであった。小規模な文化的ルネサンスのなか、イギリスの上流社会は開花した。摂政王太子は美術における偉大なパトロンの1人として、美麗で異国風なブライトン・パビリオンの建造と改装に莫大な資金を投じた。建築では飾りたてたカールトン・ハウスなど多くの建物の建造に投資した(ジョン・ナッシュジェームズ・バートン英語版デシマス・バートン英語版も参照)。摂政王太子、後に国王の派手好きで王室経費は使い果たされ、やがて国庫からも金銭を出す羽目となった[1]

この時期のイングランドの美しさとファッションとは裏腹に、イギリスの社会は高度に階級化されたものになり、社会の暗部となっていた。ロンドンのより富裕でない、薄汚い地域では盗み、情事、ギャンブル、「集団繁殖地英語版」の存在(スラムの意)、酒浸りの人々、などが横行した[2]。人口も大幅に上昇し、1801年時点で100万にちょうど満たなかった人口が1820年には125万ほどになっていた[2]。この人口増は混乱でありながら、流動的な、活気のみなぎる情勢を作り出した。ロバート・サウジーによると、社会階層の差はすさまじいものだった。

摂政時代の社会の魅力、華々しさとその裏にある卑しさ、汚さは明確な対照となった。貧困への対策はほんのわずかしかなかった。ジョージ3世の隠居後の摂政時代において、より敬虔で保守的な社会は終わり、より軽薄な、見栄っ張りな社会に取って代わられた。この変遷は摂政王太子自身による影響であり、彼は政治と軍事から完全に隔離された。しかし、王太子の活力がポジティブな方向性になることはなく、そのはけ口はただ享楽と、父への反抗に向けられた[3]

これらの変遷を推進したのは金や青年期の反抗心だけでなく、技術の進歩もあった。1814年、タイムズ紙が蒸気式の印刷機を採用した結果、1時間ごとに200部も印刷できなかったのが5倍以上の1,100部まで上がり、生産能力と需要が大幅に上昇した[4]。蒸気式の印刷機を採用したことで、出版社は当時大人気な社交界小説英語版で金持ちや貴族の物語、噂話、見せびらかし話などを広めることができた。時にはそれらの物語の主人公を(あまり秘密的でない風に)ほのめかした。社会階層の大きな裂け目により、下流の市民は上流社会を現実に存在するが手の届かない存在として認識しつつ、奇妙で空想的なフィクションとみなした。

摂政時代の事件

1811
プリンス・オブ・ウェールズジョージ・オーガスタス・フレデリック[5]摂政に就任、以降9年間その位に留まり、摂政王太子として知られるようになる。ジョージアン時代の一期間である(正式な)摂政時代の始まりとなった。ウェリントン公爵半島戦争フエンテス・デ・オニョロの戦い英語版アルブエラの戦いで勝利。6月19日の21時、摂政王太子はカールトン・ハウスで摂政就任の祝祭を行った。ラッダイト運動がおこる。グラスゴーで織工が暴動。
1812
スペンサー・パーシヴァル庶民院暗殺される英語版エルギン・マーブルの輸送が終わる。サラ・シドンズ引退。海運と領土をめぐる紛争により、イギリスとアメリカの間で米英戦争が勃発。イギリス軍がサラマンカの戦いでフランス軍に勝利。ガス会社(ガス・ライト・アンド・コーク・カンパニー英語版)設立。チャールズ・ディケンズ誕生。
1813
ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』出版。ウィリアム・ヘドリー蒸気機関車パッフィング・ビリー英語版が試験運転に成功。クエーカーで監獄の改革者であるエリザベス・フライ英語版によるニューゲート監獄の改革が始まる。ロバート・サウジー桂冠詩人になる。
1814
第六次対仏大同盟がフランスに侵攻した後、パリ条約で講和した。ナポレオンは退位、エルバ島に流刑となる。ウェリントン侯爵がロンドンのバーリントン・ハウスで公爵に叙される。イギリス軍がワシントンを焼き討ちにし、ホワイトハウスが焼かれる。最後のテムズ川の氷上フェア英語版が行われ、以降テムズ川が氷結することはなかった。ロンドンの市街地でガス灯が導入される。
1815
ナポレオン・ボナパルト百日天下第七次対仏大同盟とのワーテルローの戦いに敗れ、ナポレオンはセントヘレナ島へ流罪となる。穀物法の施行により穀物の輸入が規制される。ハンフリー・デービーが炭鉱工の安全灯(デービー灯)の特許を取得。ジョン・ラウドン・マクアダム英語版の道路工事の手法が採用される。
1816
所得税廃止。インドネシアの火山噴火により、「夏のない年」がおこる。メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を書く。ウィリアム・コベットが新聞をパンフレットとして出版。イギリスがインドネシアをオランダに返還。ロンドンのリージェンツ運河建築工事の第1段階が始まる。洒落者ブランメルが債権者から逃避してフランスへ逃亡。
1817
アントナン・カレームがブライトンにあるロイヤル・パビリオンで摂政王太子のための宴を振舞った。シャーロット王女が出産の合併症で死去、産科学の慣習が変わるきっかけを作った。エルギン・マーブル大英博物館で展示される。ウィリアム・ブライ中将死去。
1818
シャーロット王妃キューで死去。マンチェスターの綿織工がストライキを行う。坑夫とダラム主教英語版の部下がウェアデール英語版における猟権をめぐってスタンホープで暴動。ピカデリーサーカス建設。
1819
ピータールーの虐殺。アレクサンドリナ・ヴィクトリア王女(後のヴィクトリア女王)の洗礼式がケンジントン宮殿で行われる。ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』出版。トーマス・ラッフルズシンガポールを創設。蒸気船による初の大西洋横断がサバンナによって行われる(ジョージア州サバンナからリヴァプールまで)。
1820
ジョージ3世死去、摂政王太子がジョージ4世として国王に即位。貴族院がジョージ4世とキャロライン王妃の離婚を許可する法案を通過させたが、大衆の圧力で廃案になる。ジョン・コンスタブルが『乾草の車』を描き始める。カト・ストリートの陰謀英語版が失敗。王立天文学会設立。ミロのヴィーナス発見。

場所

下記は摂政時代と関連する場所の一覧である。

ボンド街の変化、ジェームズ・ギルレイ作、1795年。

人物

初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリートーマス・ローレンス作、1814年。

下記は摂政時代において重要と思われる、ウィキペディアにおいて単独記事のある人物の一覧である。

新聞、パンフレット、出版物

大衆文化におけるイギリス摂政時代

ジェーン・オースティン、姉のカサンドラが鉛筆と水彩で描いた肖像画、1810年作。

イギリス摂政時代の画像

関連項目

脚注

  1. ^ Parissien, Steven. George IV: Inspiration of the Regency. New York: St. Martin's Press, 2001. p. 117.
  2. ^ a b Low, Donald A. The Regency Underworld. Gloucestershire: Sutton, 1999. p. x.
  3. ^ Smith p. 14.
  4. ^ Morgan, Marjorie. Manners, Morals, and Class in England, 1774–1859. New York: St. Martin's Press, 1994. p. 34.
  5. ^ George IV (r. 1820–1830)”. The Royal Household. 2015年4月12日閲覧。
  6. ^ The Adelphi Theatre, 1806–1900”. 2007年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月29日閲覧。
  7. ^ Attingham Park: History”. National Trust. 2015年4月12日閲覧。
  8. ^ Circulating Libraries, 1801–1825”. Library History Database. 2008年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月12日閲覧。
  9. ^ Jane Austen: Sports”. Jane's Bureau of Information. 2008年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月12日閲覧。
  10. ^ a b Jane Austen: Places”. Jane's Bureau of Information. 2008年5月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月12日閲覧。
  11. ^ a b Jane Austen: Gardens”. Jane's Bureau of Information. 2008年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月12日閲覧。
  12. ^ a b Jane Austen: Theatre”. Jane's Bureau of Information. 2008年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年4月12日閲覧。
  13. ^ British Journalists 1750–1820”. Spartacus Educational. 2015年4月12日閲覧。
  14. ^ Newspapers and publishers at dawn of 19th century”. Georgian Index. 2015年4月12日閲覧。
  15. ^ An Introduction to the British Regency Period”. PeriodDramas.com. 2015年4月12日閲覧。

参考文献

  • Bowman, Peter James. The Fortune Hunter: A German Prince in Regency England. Oxford: Signal Books, 2010.
  • David, Saul. Prince of Pleasure The Prince of Wales and the Making of the Regency. New York: Atlantic Monthly Press, 1998.
  • Knafla, David, Crime, punishment, and reform in Europe, Greenwood Publishing, 2003
  • Lapp, Robert Keith. Contest for Cultural Authority – Hazelitt, Coleridge, and the Distresses of the Regecy. Detroit: Wayne State UP, 1999.
  • Low, Donald A. The Regency Underworld. Gloucestershire: Sutton, 1999.
  • Marriott, J. A. R. England Since Waterloo (1913) online
  • Morgan, Marjorie. Manners, Morals, and Class in England, 1774–1859. New York: St. Martin's P, 1994.
  • Parissien, Steven. George IV Inspiration of the Regency. New York: St. Martin's P, 2001.
  • Pilcher, Donald. The Regency Style: 1800–1830 (London: Batsford, 1947).
  • Rendell, Jane. The pursuit of pleasure: gender, space & architecture in Regency London (Bloomsbury, 2002).
  • Simond, Louis. Journal of a tour and residence in Great Britain, during the years 1810 and 1811 online
  • Smith, E. A. George IV. New Haven and London: Yale UP, 1999.
  • Wellesley, Lord Gerald. "Regency Furniture", The Burlington Magazine for Connoisseurs 70, no. 410 (1973): 233–41.
  • White, R.J. Life in Regency England (Batsford, 1963).

外部リンク


摂政時代

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ヴァフタング6世 (カルトリ国王)」の記事における「摂政時代」の解説

1675年カルトリ王国王子レヴァン英語版)と最初の妃であるトゥータの間の第2王子として誕生し1703年から1712年にかけて、伯父ギオルギ11世(英語版)と同母カイホスロー英語版)の摂政(janishin)を務めた摂政期間は一連の長らく必要とされてきた改革経済・文化復興統治機構再編中央の王権強化発表1707年から1709年には、ロシア併合に至るまでグルジア封建制度原則となるdasturlamali(別名ヴァフタング法)で大幅に法を改訂した1711年に兄が死亡、翌1712年ペルシャサファヴィー朝シャースルターン・フサイン召還されカルトリ国王として申し開きさせられた。フサインヴァフタングイスラム教奉ずるという条件呑まない限り申し開き認めないとしたが、彼はイスラム教改宗拒否して投獄され異母弟のスヴィモン(英語版)が臨時摂政立てられた後、シャー条件に従うもう1人異母弟イェッセムスリム名:アリー・クリー・ハーン)が1714年王位就いたイェッセ国内抗争ダゲスタンからの部族侵略を受けるカルトリ王国2年統治した囚われの身であった期間、ヴァフタングヨーロッパキリスト教国の君主とりわけフランスルイ14世のもとに叔父教師のスルハン=サバ・オルベリアニ(英語版)を差し向け支援要請したその後明らかとされた1722年11月29日付のローマ教皇インノケンティウス13世神聖ローマ皇帝カール6世宛てヴァフタング最後の手紙によると、彼は数年前より密かにカトリック教会信仰していたが、「自分のこと人々欺くことになるので」公に告白することが出来なかったと述べており、ペルシャからのカプチン・フランシスコ修道会宣教師報告書からも確認できる。彼らはヴァフタングがうわべだけのイスラム教徒ムスリム)になる前にカトリック信者になり、カトリック集団のもとに行くことを非難した政治的にヴァフタング努力無駄骨終わり1716年渋々改宗して「フサイン・クリー・ハーン」と名乗ると息子のバカル王子英語版)をカルトリ王国派遣イェッセイスラム教棄教して退位したヴァフタング国王に即位したが未だペルシャ留め置かれた状態で、代わりにバカルが摂政としてカルトリ統治した

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