摂政時代の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:27 UTC 版)
「ブラジル帝国の歴史」の記事における「摂政時代の問題」の解説
ペドロ2世が成年する(18歳になる)のは1843年のことになるため、彼が成年するまで統治する摂政が選出された。これにより、ブラジルは国名を除いてほぼ共和政をとるに至った。ジョアキン・ナブコ(英語版)の1890年代の著作によると、ブラジルの共和派はブラジルに上位の裁断者たる君主がおらずとも平和裏に存続できることを証明する機会であると考えた。しかし、共和派による統治はブラジルにとって災害でしかなく、摂政時代のブラジルはスペイン語圏の隣国と同程度になり下がった。摂政には実質的な権威がほとんどなく、ブラジルが9年間の混乱に陥った。この時期のブラジルでは政治派閥による反乱とクーデターが頻発した。 1831年4月7日に権力の座についた自由党は緩い政治連合で、「共通点のない利害」を代表しており、「ペドロ1世への反対のみで連合していた」。一口に「自由党」と言っても、それぞれ重視すべきと主張した理想が違い、しかも各々が自身の理想を優先して他人の理想に反対したりした。その結果、自由党はすぐに2派に分裂した。1つは共和派(「急進派」または「ぼろきれ」とも呼ばれた)で、小さいながら急進的な派閥であり、もう1つは「中道」自由派だった。中道自由派はディオゴ・アントニオ・フェイジョ(英語版)司祭率いる現地派とコインブラ大学出身者で固めた「コインブラ党」の連合だった。コインブラ党の指導者はペドロ・デ・アラウジョ・リマ(英語版)(後のオリンダ侯爵)とベルナルド・ペレイラ・デ・ヴァスコンセロス(英語版)だった。ヴァスコンセロスは党の首脳部としてふるまっただけでなく、オノリオ・エルメト・カルネイロ・レオン(後のパラナ侯爵)、パウリノ・ソアレス・デ・ソウザ(英語版)(後のウルグアイ子爵)、ジョアキン・ジョゼ・ロドリゲス・トレス(英語版)(後のイタボライ子爵)など後進の指導者としての一面もあった。 中道派と関連を持っていないより小さな派閥もあった。そのうちもっとも重要だったのはカラムルス(ポルトガル語版)(復帰派))であり、復帰派はペドロ1世の摂政就任を主張した。復帰派の脅威に対処する必要性と、連邦制への支持という2点だけが現地派とコインブラ党を中道派という1つの派閥に引き入れた理由だった。ブラジル憲法は過剰に中央集権を目指しており、それが中道派がペドロ1世に反対した主な理由であった。ペドロ1世自身も全ての憲法改正に反対した。中道派は地方自治権を増大させることで不満が減り、分離主義者の脅威も消滅すると考えた。 地方分権に関する憲法改正案は下院を無事通過したが、上院で反対に遭った。アントニオ・フェイジョは独裁者となるべくクーデターを計画、さらに計画が成功した暁には議会の承認なしに憲法改正を決定すると考えた。1832年7月30日、現地派議員の一部はフェイジョとともに下院に対し議会を制憲議会に変えることを提案した。彼らは上院が復帰派議員に乗っ取られているため、下院で新憲法を制定すべきと主張したのであった。しかしカルネイロ・レオン(コインブラ党)はほかの議員を説得して反対に回らせることに成功、クーデター計画は失敗した。コインブラ党の断固とした行動により、ブラジルは反乱や政治危機に晒されている状況においても法的権利の剥奪と独裁体制の成立を回避した。
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