摂政時代(1643年 - 1647年)と失脚(1647年 - 1650年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 14:23 UTC 版)
「ジルガラン」の記事における「摂政時代(1643年 - 1647年)と失脚(1647年 - 1650年)」の解説
ドルゴンがムクデンに留まっている間、1643年11月から12月頃にジルガランは北京への道を塞ぐ要塞である山海関への攻撃に送られた。翌1644年1月から2月頃、ジルガランはすべての公文書において自分の名をドルゴンの後に置くことを求めた。ジルガランは有能な軍事指導者であったが、国事には興味を持たなかったようであり、2月17日に公務の全権をドルゴンに自ら進んで明け渡した。同年6月初旬の清軍の北京入城に、ジルガランが立ち会うことはなかった。 1647年には摂政の位を退かされ、代わってドルゴンの弟のドド(多鐸)がその位に就いた。摂政の地位は失った後も、ジルガランは変わらず軍事指揮権を握っていた。しかし翌1648年3月、ドルゴンはジルガランを様々な罪を犯したとして捕え、親王から郡王へと降格させた。その後、同年のうちにジルガランは中国南部での南明軍との戦いに送られている。1649年初め、いくつかの戦勝を挙げた後、湖南の湘潭の住人への6日間にわたる大虐殺を命じた。1650年に南明最後の君主永暦帝を破り、北京へと凱旋した。
※この「摂政時代(1643年 - 1647年)と失脚(1647年 - 1650年)」の解説は、「ジルガラン」の解説の一部です。
「摂政時代(1643年 - 1647年)と失脚(1647年 - 1650年)」を含む「ジルガラン」の記事については、「ジルガラン」の概要を参照ください。
- 摂政時代と失脚のページへのリンク