摂政就任後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 06:42 UTC 版)
「フニャディ・ヤーノシュ」の記事における「摂政就任後」の解説
王を失ったハンガリーは無政府状態に陥り、ハプスブルク家のラディスラウス・ポストゥムスが新たなハンガリー王に選出された(ラースロー5世)が、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世はラースロー5世のハンガリー行きを許さなかった。1446年6月5日、ラースロー5世の名の下にフニャディはハンガリー王国の摂政(Regni Gubernator)に選出され、権限を授与された。摂政就任にあたってはヴァーラド司教ヴィテーズ・ヤーノシュ(英語版)の宣伝工作が功を奏し、中小貴族がフニャディの支持基盤を構成していた。ラースロー5世の解放を拒んだフリードリヒ3世への対応が、摂政となったフニャディの最初の仕事となった。ハプスブルク家の支配下にあるスティリア、ケルンテン、カルニオラを破壊し、ウィーンを脅かした後、フリードリヒ3世と2年間の休戦協定を締結した。 摂政就任後のフニャディは中央権力と国防の強化に努め、反大貴族・反ハプスブルク家の方針を採った。フニャディの指導下では中小貴族に有利な法令が施行され、宮廷の要職に彼らが登用された。しかし、摂政であるフニャディは王権の全てを有しておらず、中小貴族たちもフニャディへの全権の付与をためらっていたため、中央権力の強化は進展しなかった。 1448年にフニャディはペトル3世(英語版)のモルダヴィア公即位を助け、見返りとして対オスマンの防備の拠点であるキリア(英語版)を割譲される。この年にフニャディは教皇ニコラウス5世から金の鎖と公の称号を授与され、直後にオスマン帝国との戦争を再開した。しかし、大貴族のツィレイ家とセルビアはフニャディを裏切り、フニャディの同盟者であるスカンデルベグの到着は遅れていた。1448年10月にコソヴォでハンガリー軍とオスマン軍は激突し、3日にわたる戦闘の末にハンガリー軍はオスマン軍の包囲攻撃を受けて敗北する(コソヴォの戦い(英語版))。フニャディは逃走中にブランコヴィチに捕らえられ、セルビア、ツィレイ家と協定を結んだ後に解放された。コソヴォでの敗戦の後、ハンガリー内部の抗争によってオスマン帝国に対する軍事作戦は中断された。国内での立場が弱まったフニャディは、ハプスブルク派の貴族に接近して地位の回復を図ることになる。 1450年にフニャディはポジョニ(ブラチスラヴァ)に赴き、フリードリヒ3世とラースロー5世の解放について協議するが、合意には至らなかった。この年にフニャディ家・ツィレイ家・セルビアの同盟に大貴族のガライ家とウイラキ家が加わり、フニャディの長男ラースローはガライ家、次男のマーチャーシュはツィレイ家の娘と結婚した。同盟を結成した大貴族たちは協力してハンガリーに国王を迎え入れようとし、オーストリア・ボヘミアの支持を得て、フリードリヒ3世にラースロー5世のハンガリー行きを決定させた。翌1451年、フニャディは軍備を整えるために再びオスマン帝国と休戦協定を締結する。 大貴族ツィレイ・ウルリクらをはじめとするフニャディの政敵たちは、彼が国王を打倒する陰謀を企てていると非難した。より混迷する国内情勢を安定させるため、フニャディは摂政の地位と権限を返上しなければならなくなった。1452年にフニャディはウィーンに赴き、成年に達したラースロー5世に王権を返還した。 1453年初頭にフニャディはハンガリーに帰国し、ラースロー5世はフニャディを総司令官兼大蔵卿に任命した。また、フニャディには多くの称号と恩貸地が授与され、ビストリツァ、トランシルヴァニア・ザクセン人の居住区がフニャディの領地に加わった。ツィレイ・ウルリクはフニャディの地位を妬み、ガライ家、ウイラキ家と同盟してフニャディに敵対した。
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