摂政委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/09 09:41 UTC 版)
摂政委員会(スペイン語: Consejo de Regencia de España e Indias、「スペイン・インディアス摂政委員会」)は、スペイン本土のほぼ完全な回復とカディス・コルテスの設営を監督し、スペイン1812年憲法を起草した。委員会はフランスシコ・ハビエル・カスタノス将軍、評議員のアントニオ・デ・エスカノ、フランシスコ・サアベドラ、エステバン・フェルナンデス・デ・レオン、オレンセの司教ペドロ・デ・ゲベド・イ・キンタノの5名で構成され、その中の誰も最高中央評議会にはいなかった。フェルナンデス・デ・レオンは、健康上の理由で初日からミゲル・デ・ラルディサバル・イ・ウリベ(ヌエバ・エスパーニャ代表のフンタの補充評議員)に引き継いだ。摂政委員会はその監視のもと、一院制としてコルテスを召集する議論の多い決定を下す細則を承認した。1810年9月24日に機能し始めたコルテスは、立法権と摂政委員会の監督を引き受けた。 最高中央評議会の解散はイスパノアメリカにおける重大な転換点だった。イスパノアメリカの大部分の人々は、いつでもフランス軍に捕らえられる脅迫にさらされた残り物の政府を承認する理由を見出せず、地域のフランスからの独立性を維持するために現地のフンタの創設に動き始めた。フンタ創設の動きはヌエバ・グラナダ(コロンビア)、ベネズエラ、チリ、リオ・デ・ラ・プラタ(アルゼンチン)で成功した。中米では重大な動きではあったが、うまくいかなかった。これらのフンタは、ちょうどイベリア半島のフンタが初めにそうしたように、退陣した王の名のもとに運営することを主張したが、その創設は公然と、そして安全に意図を進めるための完全な独立を望む人々に機会を与え、イスパノアメリカのほとんどに解放をもたらすことになった25年の長きにわたる紛争を引き起こした。
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