主権のための内戦(1810年-1814年)
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「イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「主権のための内戦(1810年-1814年)」の解説
「カラカス最高評議会(英語版)」、「ベネズエラ第一共和国(英語版)」、「パトリア・ビエハ(英語版)」、「五月革命 (アルゼンチン)」、「パトリア・ボバ(英語版)」、「1811年独立運動(英語版)」、「エスパーニャ・ボバ(英語版)」、「ミゲル・イダルゴ」、「ホセ・マリア・モレーロス」、「ホセ・ゲルバシオ・アルティガス(英語版)」、および「ベネズエラ第二共和国(英語版)」も参照 1810年4月19日のカラカス最高評議会(英語版)などイスパノアメリカで創設されたフンタは来たる15年間の戦闘の舞台を用意した。政治的な断層線が現れ始め、しばしば武装紛争の原因になった。フンタはスペイン官僚の権威を摂政委員会の承認の是非にかかわらず認めなかったが、帝国の統一を維持しようとしたスペイン官僚とイスパノアメリカ人はコルテスを支持する自由派と政体の変更を望まない保守派(史学史上絶対主義者と呼ばれるも多い)に分裂していた。また、フンタは廃位されたフェルナンド7世の名のもとで行動していると主張したが、フンタの創設は完全独立の支持者が公的に、安全に独立を宣伝する素地になった。独立の支持者は自身を愛国派(英語版)と呼び、この呼び名は後に全ての独立派に対して使用された。 独立が最初の目的ではなかったことには、1810年直後に独立を宣言した地域が少ないことが証拠として挙げられている。ベネズエラとヌエバ・グラナダの議会が1811年に独立を宣言したことと(ベネズエラ独立宣言(英語版))、パラグアイが同年5月14日/15日に独立を宣言したこと(1811年5月の革命(スペイン語版))が例外であった。一部の歴史家は独立宣言に後ろ向きだった理由を「フェルナンド7世の仮面」と解釈している。すなわち、大衆が完全独立による急激な変化に適応できるようにするために、まず追放された国王への忠誠を主張する必要があると、愛国派の指導者が考えたのであった。いずれにしても、イベリア半島当局から実質的に独立していたリオ・デ・ラ・プラタやチリでも数年後(1816年(英語版)と1818年(英語版))にようやく独立を宣言した。ただし、正式に独立したか実質的に独立したにかかわらず、イスパノアメリカの多くの地域では内戦が1820年代までほぼ連続して行われた。メキシコではフンタ設立の動きが本国からの商人と官僚によって早期に止められたが、摂政委員会やフランスから独立した政府を設立する動きはミゲル・イダルゴによる反乱という形で現れた。イダルゴは1811年に捕らわれ、処刑されたが、抵抗の動きは続き、1813年にはメキシコ独立宣言(英語版)を発するに至った。中米では1811年にフンタを設立する試み(英語版)があったが鎮圧された(流血はより少なかった)。カリブ海諸島とフィリピンにおけるフンタ設立の動きは広く支持を得る前に当局に報告され阻止された。
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