史学史
史学史
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「シュテディンガー十字軍」の記事における「史学史」の解説
同時代の年代記者たちは、農民に対する十字軍を実施するには聖地や異端に対する十字軍よりも明確な正当性の確保が必要であることをよく認識していた。アルブリー・ド・トロワ=フォンテーヌはシュテディンガーを悪魔崇拝者と関連付けようとし、他の年代記者はカタリ派と結び付けようとしたが、いずれも説得力に欠ける。 ヘルマン・シューマッハーは、1865年のシュテディンガー研究において、彼らに対する「異端」というレッテルは無根拠であり、「無意味」ですらあると断じた。より後の時代のロルフ・ケーンは、ヨーロッパに広がる異端に危機感を抱いていた同時代人が至極真面目にシュテディンガーの異端問題を受け止めていたとしている。シュテディンガー十字軍の歴史は、農民史学者や十字軍史学者から注目を集めている。ヴェルナー・ツィーンは、シュテディンガーの敗因は前の10年ほどの間に彼らが限界を迎えていたことにあると指摘している。ツィーンによれば、シュテディンガーは既に外部勢力を惹きつけるような魅力を失っており、同盟者を得ることができず敗れた。 1970年代以前のシュテディンガー十字軍研究は、もっぱらイデオロギーの絡んだ目線で行われていた。シューマッハーはシュテディンガーを封建制からの解放を希求する者たちと捉えた。国家社会主義者たちは、シュテディンガーを圧政と外部の教会に立ち向かう自由ドイツの代表的な英雄とみなした。東ドイツ史学では、シュテディンガーは貴族の強欲に反撃する抑圧された労働者階級とされた。
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史学史
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「ポーランド・プロイセン同盟」の記事における「史学史」の解説
ポーランド・プロイセン同盟の史学的研究は1890年代に始まり、1900年にポーランドの歴史家シモン・アスケナジが同盟を外交的・国際的な側面から考察したPrzymierze polsko-pruskieを出版した。アスケナジは、同盟が失敗に終わった原因はプロイセンの現実主義的な方針と比較して下手だったポーランド外交にあると論じたが、多くの歴史家たちはこの考えに同意していない。同盟のどの部分が現実的で、どの部分がポーランドの政治家たちの誤算を招くプロイセンのフェイクであったかという問題については、現代の歴史家たちの間でも議論が続いている。またピオトル・ステファン・ヴァンディチュによれば、この同盟からもたらされた利益・不利益についても1世紀以上にわたり結論が出ていない。
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史学史
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「南北国時代」論の歴史は非常に新しい。この議論の引き金を引いたのは、北朝鮮の朴時亨の論文「渤海史研究のために」(1962年)である。それまで北朝鮮の公的史観において、レーニンの民族論をベースにして、新羅の三国統一が朝鮮準民族(ナロードノスチ)形成の契機とされていた。朴時亭以後は、三国鼎立、南北両立、そして高麗による統合という新たな歴史観が北朝鮮の公的見解となった。これにあわせて「統一新羅」は「後期新羅」(후기신라)と呼ばれるようになった。ただし、北朝鮮では「南北国」なる用語は使わず、「渤海及び後期新羅」と表記している。北朝鮮と「朝鮮の国家」としての正統性を争う韓国では、遅れて李佑成が「南北国時代と崔致遠」(1975年)を発表し、新羅と渤海の並立時代を「南北国時代」と規定した。この規定は民族主義的な韓国史学において受け入れられ、国定教科書に記述されるに至っている。ただし、北朝鮮と異なり「統一新羅」の呼称は引き続き用いられている。 朴時亨の論文「渤海史研究のために(朝鮮語: 발해사 연구를 위하여)」では、新羅時代にすでに「南北朝」という概念があったと主張しており、「南北朝」は「まさしく統一を実現しようとする同族の全体の一部である」している。韓東育は、「朴教授の学術理念を理解する上で役立つかもしれない」として、朴時亨の学術理念をこう見る。 1962年末か1963年春頃、朝鮮最高人民会議常任委員会の崔庸健委員長は、周恩来総理にたびたび中国東北地方の考古調査や発掘を進行させるよう要求した。崔の主張の大意は、以下のようである。国際上の帝国主義修正主義や反動派は我国を封鎖して孤立させ、我々を小民族、小国家、自己の歴史や文化を持たず、国際的な地位を有しないと中傷した。我々は中国東北地方の考古学を進行させ、自己の歴史を明確にし、古朝鮮の発祥地を探すことを要求する。周総理は一面では同意を示し、他面では婉曲的に古朝鮮が我国の東北地方に起源を持つという観点に対して反対した。周総理が言うには、「我々は、古朝鮮の起源が我国の東北地方とは決まっておらず、我国の福建省を起源とする可能性がある。朝鮮の同志は、水稲を植え、米を食し、またみんな下駄を履いており、飲食や生活習慣が福建と同じである。また、朝鮮語の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音と我国福建の一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の発音は同じであり、福建の古代住民が朝鮮半島に渡来した可能性がある」というものであった。
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史学史
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現代ベルギーの史学史は18世紀後半に学者が特定の州、都市、領主の年代記に集中せず、データの蓄積に頼るようになったことで始まった。彼らは特定の歴史問題を批判的な手法で取り組んで学術論文を書いた。この手法の発展はベルギー帝国立・王立アカデミー(英語版)の推進によるものであり、ヴォルテールなどの啓蒙思想の影響を受けた、人民の歴史を探索する動きを反映するものでもあった。歴史上の因果関係を追求、オーストリア領ネーデルラントの通史を構築することが目的であり、ベルギーという国家の歴史を生み出す重要な一歩となった。 ベルギーが独立したのは1830年のことであったため、19世紀末の歴史家にとって「国である状態」(nationhood)を定義するのは至難の業であった。当時のヨーロッパでは使用言語に沿って国を定義したが、これはベルギーでは使えない定義であった。ロマン主義者のジョゼフ=ジャン・ド・スメ(Joseph-Jean de Smet)はベルギーを死から蘇った「フェニックス」と形容した。しかし、オランダ、スペイン、オーストリア、フランス、ドイツなど周辺諸国の影響の中でベルギーの過去と現在を定義することは難しく避けられない問題であった。ベルギーの国境、特にフランデレンがオランダ領ではない理由を説明することもまたアンリ・ピレンヌなどの歴史学者が頭を悩ませた問題である。 中世学者(英語版)のゴドフロワ・キュルト(英語版)はドイツの歴史家レオポルト・フォン・ランケの学生であった。キュルトはリエージュ大学でランケの先進的な歴史研究手法を教えた。20世紀初期には中世学者アンリ・ピレンヌによりベルギーの史学史が国際的な名声を得た。 ヘント大学における歴史学はヒューベルト・ファン・ホウテ(Hubert Van Houtte)などの中世学者が先駆者となった。1945年以降、シャルル・ヴェルリンデン(フランス語版)が社会史におけるフランスのアナール学派の手法を導入した。ヘント大学では植民地と海事史、価格と賃金の歴史、農業史、商業史、そして織物業が研究の主題になった。1970年代と1980年代には研究の主題が歴史人口学、生活水準と生活習慣、乞食と犯罪、そして思考傾向と文化史に広がった。
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史学史
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古くから農民は様々な文献に登場するが、その多くにおいて、彼らは下等な欲求の表現者もしくは田舎臭い喜劇の演者として扱われ、"peasant"という言葉自体が軽蔑的な意味合いで用いられてきた側面がある。特にヨーロッパのキリスト教世界では、社会は「働く者(農民)」、「祈る者(聖職者)」、「闘う者(王侯・騎士)」の三階級に分かれるという理論が一般に受け入れられていた。後にフランスで生まれたアナール学派の歴史学者たちは、それまで軽視されてきた農民階層の重要性を指摘し始めた。フェルナン・ブローデルは、その主要著書の一つ『物質文明・経済・資本主義』の第一巻を『15-18世紀 日常性の構造』と題し、市場経済より低層に、巨大で目に見えづらい世界が確かに存在していたことを明らかにした。 他にもフロリアン・ズナニェツキや費孝通らが農民史を研究しており、第二次世界大戦後、ロバート・レッドフィールドは「大伝統」と「小伝統」の概念を提示した。1960年代になると、人類学者や歴史学者は世界史上で農民戦争が果たした役割を再考し始めた。資本主義や帝国主義に対する懐疑が論じられるようになった中で、それらに対抗する形で第三世界で農民戦争が多発していたことに光が当てられるようになった。 人類学者のエリック・ウルフは、当初はマルキスト的な研究を行っていた。先駆者としては、封建制から資本主義への変遷の鍵として農村の人々を取り上げた経済学者のダニエル・ソーナーがいる。しかし後にウルフらは、マルクス主義を否定する一方で、農民に行動を起こす能力が無かったとみなす従来の近代化論をも批判した。ジェームズ・C・スコットは、マレーシアでのフィールドワークを通じて、農民は間接的な行動手段しか持っていないとはいえ、地方政治を動かすには十分な影響力を持っていることを確信した。こうした行動主義的な学者の多くは、インドでの小作争議や、1920年代以降の毛沢東率いる中国の革命理論を振り返った。一方でミーロン・コーエンは、前述の通り中国農村の人々が「農家」ではなく「農民」に相当する語で呼ばれていることに疑念を呈し、これが学術的な区別でなく政治的な意図がこもった用法であると述べている。
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