人物・業績
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加藤幾惠は、詩の雑誌『詩と思想』(発行人・笛木利忠、発行所・土曜美術社、新宿区新宿)に、1979年7月号(第三号)から、編集スタッフとして参加した。その後『詩と思想』は1985年3月(30号)より、詩人たちの手による編集委員会発行となり、加藤は 高良留美子、森田進、しま・ようこ、木津川昭夫、佐久間隆史、清水和子、宇野恵介、一色真理、中村不二夫、岡島弘子、雨宮慶子らの詩人たちの編集を支えつつ、詩の月刊商業雑誌としての定期刊行体制の確立を果たした。1989年4月(52号)より編集長に就任した小海永二のもとで、編集委員会、編集顧問、購読会員からなる新制度を定着させた加藤は、1992年9月号(90号)よりの発行元である土曜美術社出版販売の取締役社長に就任した。社主として加藤は、編集顧問の小海、編集委員の森田進、中村不二夫、葵生川玲、麻生直子、小川英晴、佐久間隆史 らとともに、「日本現代詩文庫」、 「詩論・エッセー文庫」、「世界現代詩文庫」の相次ぐ企画の刊行により詩の掘り起こしと普及に尽力するとともに、「21世紀詩人叢書」、「叢書新世代の詩人たち」の新たな叢書の創刊により、中島悦子、高畑耕治など日本全国から新世代の詩人を掘り起こした。多くの詩人に惜しまれるなか2001年3月に52歳で急逝。
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大阪府出身。大阪府立住吉中学校(現・大阪府立住吉高等学校)在学中からアマチュア天文家として活動。アマチュア天文家としては戦時中の1944年に福岡市を本拠地とする筑紫天文同交会に入会し、主に変光星の観測を行った。筑紫天文同交会が1947年3月に解散してからは変光星の観測結果をアメリカ変光星観測者協会や日本天文研究会に報告していた。 1953年浪速大学(現・大阪府立大学)工学部工業化学科を卒業したが、プロの天文学者を志し京都大学大学院理学研究科宇宙物理学専攻に進学、上田穣に師事した。1958年京大大学院理学研究科宇宙物理学専攻博士課程を修了。 水沢緯度観測所(現・水沢VLBI観測所)主任研究官・東京大学東京天文台助教授を歴任。その間1969年には理学博士の学位を取得。1988年国立天文台の発足に伴い国立天文台助教授に就任。1990年定年退官し、1992年女子美術大学芸術学部教授に就任。 小惑星番号2271番の木曾をはじめ、長野県木曽郡木曽町の東京大学大学院理学系研究科附属天文学教育研究センター木曽観測所において、1976年以降、多数の小惑星を発見した。 カール・ラインムートが1929年1月29日に発見した小惑星番号3425番古川は彼に因む。 発見した小惑星(2271) 木曾 1976年10月22日[1] (2330) 御岳 1977年2月18日[1] (2470) 上松 1976年10月22日[1] (2924) 三岳村 1977年2月18日[1] (2960) 王滝 1977年2月18日[1] (3111) みすず 1977年2月19日[1] (3249) 武蔵野 1977年2月18日[1] (3291) ダンラップ 1982年11月14日[1] (3319) 吉備 1977年3月12日[1] (3320) 難波 1982年11月14日[1] (3391) シノン 1977年2月18日[1] (3607) 浪速 1977年2月18日[1] (3878) 縄文 1982年11月14日[1] (4072) 弥生 1981年10月30日[1] (4077) 飛鳥 1982年12月13日[1] (4186) 玉島 1977年2月18日[1] (4272) 円通寺 1977年3月12日[1] (4526) 金光 1982年5月22日[1] (4812) 白鳳 1977年2月18日[1] (4855) 天平 1982年11月14日[1] (4890) 志賀島 1982年11月14日[1] (4929) 邪馬台 1982年12月13日[1] (4963) 觀勒 1977年2月18日[1] (5017) 天智 1977年2月18日[1] (5018) 天武 1977年2月19日[1] (5082) 日本書紀 1977年2月18日[1] (5454) 古事記 1977年3月12日[1] (5466) 真備 1986年11月30日[1] (5541) 晴明 1976年10月22日[1] (6031) 良寛 1982年1月26日[1] (6218) 水島 1977年3月12日[1] (6818) 雪舟 1983年3月11日[1] (6846) 菅茶山 1976年10月22日[1] (7104) 万葉集 1977年2月18日[1] (7105) 遥照山 1977年2月18日[1] (7562) かぎろいの丘 1986年11月30日[1] (7627) 和気清麻呂 1977年2月18日[1] (7634) 閑谷校 1982年11月14日[1] (7991) かぐや姫 1981年10月30日[1] (8133) 高野長英 1977年2月18日[1] (8144) 平賀源内 1982年11月14日[1] (9147) 後楽園 1977年2月18日[1] (9153) 竹林寺 1981年10月30日[1] (9293) 鴨方 1982年12月13日[1] (9719) 矢掛 1977年2月18日[1] (10006) 拙斎 1976年10月22日[1] (10008) 頼山陽 1977年2月18日[1] (10009) 広瀬淡窓 1977年3月12日[1] (10453) 蕃山 1977年2月18日[1] (11254) 金光碧水 1977年2月18日[1] (11255) 藤井永喜雄 1977年2月18日[1] (11442) 星尋山荘 1976年10月22日[1] (11827) 鷲羽山 1982年11月14日[1] (12186) 箕作阮 1977年3月12日[1] (12221) 緒方洪庵 1982年11月14日[1] (12682) 川田 1982年11月14日[1] (14313) 堂平 1976年10月22日[1] (14314) 都幾川 1977年2月18日[1] (14315) 小川町 1977年3月12日[1] (14316) 東秩父 1977年3月12日[1] (14338) 司馬江漢 1982年11月14日[1] (14795) 逍遥 1977年3月12日[1] (14820) 会津八一 1982年11月14日[1] (14821) もたえの 1982年11月14日[1] (15202) 山田方谷 1977年3月12日[1] (15671) スザンヌ・デバルバ 1977年3月12日[1] (15672) 佐藤範雄 1977年3月12日[1] (16357) 李参平 1976年10月22日[1] (18289) 横山紘一 1976年10月22日[1] (18290) 住吉 1977年2月18日[1] (18291) 和珥 1977年2月18日[1] (18322) 鴻臚館 1982年11月14日[1] (19083) 水城 1977年2月18日[1] (19917) 大宰府 1977年3月12日[1] (19953) 武雄 1982年11月14日[1] (19954) 茂義 1982年11月14日[1] (20962) 道真 1977年3月12日[1] (22277) 平戸 1982年11月14日[1] (24640) 大神 1982年12月13日[1] (26794) 新見幸男 1977年2月18日[1] (26806) 櫛池 1982年5月22日[1] (26808) 1982 VB4 1982年11月14日[1] (34995) 大日本史 1977年2月18日[1] (34996) 水戸黄門 1977年2月18日[1] (37529) 1977 EL8 1977年3月12日[1] (43753) 1982 VN3 1982年11月14日[1] (48408) 1982 VN2 1982年11月14日[1] (52260) 嬉野 1982年5月22日[1] (52261) 和泉式部 1982年11月14日[1] (65635) 1977 EA8 1977年3月12日[1] (73639) 1977 EL7 1977年3月12日[1] (164616) 1986 WV8 1986年11月30日[1] [1]香西洋樹との共同発見
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人物・業績
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岡山県倉敷市出身。金光学園高等学校卒業、慶應義塾大学文学部中退。出身は文科系だが、アマチュア天文家ではなく国立天文台光学赤外線天文学研究系助教授を務めたプロの研究者であり、その点において香西は日本の天文学界でも異色の存在であるといえる。国立天文台退官後に、鳥取市さじアストロパーク・佐治天文台長に就任した。全国星空継続観察技術検討委員会委員を務め、皆既日食観測の海外ツアーを多数主催したことでも知られている。アマチュアとの交流にも積極的である。2019年、これらの功績により、星取県推進功労者知事表彰を受賞した。 香西が発見した小惑星には、(3319) 吉備、(3320) 難波、(3392) 瀬戸内、(14795)坪内逍遥、(14820) 會津八一などをはじめ、金光教に因んだ(4526)金光や、その関係者に因んだ(15672)佐藤範雄、(11254)金光碧水、(11255)藤井永喜雄がある。合計93個の小惑星を発見し、そのうち1個は佐々木五郎と、残り92個は古川麒一郎との共同発見である。また、(3370) 香西は、香西の功績を称えて命名された。 香西は一つ彗星を発見している。それはスキッフ・香西彗星 (D/1977 C1) だが、2006年現在、行方不明となっている。 文学にも造詣が深く、ウィリアム・シェイクスピアに関する著書もある。 発見した小惑星(2271) 木曾 1976年10月22日[1] (2330) 御岳 1977年2月18日[1] (2470) 上松 1976年10月22日[1] (2924) 三岳村 1977年2月18日[1] (2960) 王滝 1977年2月18日[1] (3111) みすず 1977年2月19日[1] (3249) 武蔵野 1977年2月18日[1] (3291) ダンラップ 1982年11月14日[1] (3319) 吉備 1977年3月12日[1] (3320) 難波 1982年11月14日[1] (3391) シノン 1977年2月18日[1] (3392) 瀬戸内 1979年12月17日[2] (3607) 浪速 1977年2月18日[1] (3878) 縄文 1982年11月14日[1] (4072) 弥生 1981年10月30日[1] (4077) 飛鳥 1982年12月13日[1] (4186) 玉島 1977年2月18日[1] (4272) 円通寺 1977年3月12日[1] (4526) 金光 1982年5月22日[1] (4812) 白鳳 1977年2月18日[1] (4855) 天平 1982年11月14日[1] (4890) 志賀島 1982年11月14日[1] (4929) 邪馬台 1982年12月13日[1] (4963) 觀勒 1977年2月18日[1] (5017) 天智 1977年2月18日[1] (5018) 天武 1977年2月19日[1] (5082) 日本書紀 1977年2月18日[1] (5454) 古事記 1977年3月12日[1] (5466) 真備 1986年11月30日[1] (5541) 晴明 1976年10月22日[1] (6031) 良寛 1982年1月26日[1] (6218) 水島 1977年3月12日[1] (6818) 雪舟 1983年3月11日[1] (6846) 菅茶山 1976年10月22日[1] (7104) 万葉集 1977年2月18日[1] (7105) 遥照山 1977年2月18日[1] (7562) かぎろいの丘 1986年11月30日[1] (7627) 和気清麻呂 1977年2月18日[1] (7634) 閑谷校 1982年11月14日[1] (7991) かぐや姫 1981年10月30日[1] (8133) 高野長英 1977年2月18日[1] (8144) 平賀源内 1982年11月14日[1] (9147) 後楽園 1977年2月18日[1] (9153) 竹林寺 1981年10月30日[1] (9293) 鴨方 1982年12月13日[1] (9719) 矢掛 1977年2月18日[1] (10006) 拙斎 1976年10月22日[1] (10008) 頼山陽 1977年2月18日[1] (10009) 広瀬淡窓 1977年3月12日[1] (10453) 蕃山 1977年2月18日[1] (11254) 金光碧水 1977年2月18日[1] (11255) 藤井永喜雄 1977年2月18日[1] (11442) 星尋山荘 1976年10月22日[1] (11827) 鷲羽山 1982年11月14日[1] (12186) 箕作阮 1977年3月12日[1] (12221) 緒方洪庵 1982年11月14日[1] (12682) 川田 1982年11月14日[1] (14313) 堂平 1976年10月22日[1] (14314) 都幾川 1977年2月18日[1] (14315) 小川町 1977年3月12日[1] (14316) 東秩父 1977年3月12日[1] (14338) 司馬江漢 1982年11月14日[1] (14795) 逍遥 1977年3月12日[1] (14820) 会津八一 1982年11月14日[1] (14821) もたえの 1982年11月14日[1] (15202) 山田方谷 1977年3月12日[1] (15671) スザンヌ・デバルバ 1977年3月12日[1] (15672) 佐藤範雄 1977年3月12日[1] (16357) 李参平 1976年10月22日[1] (18289) 横山紘一 1976年10月22日[1] (18290) 住吉 1977年2月18日[1] (18291) 和珥 1977年2月18日[1] (18322) 鴻臚館 1982年11月14日[1] (19083) 水城 1977年2月18日[1] (19917) 大宰府 1977年3月12日[1] (19953) 武雄 1982年11月14日[1] (19954) 茂義 1982年11月14日[1] (20962) 道真 1977年3月12日[1] (22277) 平戸 1982年11月14日[1] (24640) 大神 1982年12月13日[1] (26794) 新見幸男 1977年2月18日[1] (26806) 櫛池 1982年5月22日[1] (26808) 1982 VB4 1982年11月14日[1] (34995) 大日本史 1977年2月18日[1] (34996) 水戸黄門 1977年2月18日[1] (37529) 1977 EL8 1977年3月12日[1] (43753) 1982 VN3 1982年11月14日[1] (48408) 1982 VN2 1982年11月14日[1] (52260) 嬉野 1982年5月22日[1] (52261) 和泉式部 1982年11月14日[1] (65635) 1977 EA8 1977年3月12日[1] (73639) 1977 EL7 1977年3月12日[1] (164616) 1986 WV8 1986年11月30日[1] [1]古川麒一郎との共同発見 [2]佐々木五郎との共同発見
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人物・業績
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横浜の高校を卒業後アメリカ合衆国の大学に進学。卒業後はシカゴの建築設計事務所に在籍し、いったん帰国の後ハーバード大学デザイン大学院修士課程に進学。修了後から現在までアメリカ合衆国ボストンに在住。 1978年からマサチューセッツ工科大学(MIT)建築・都市計画学科教授。Kanda Associates Architects を主宰。近年はeBUNQA.com を創立。 MITの学生を来日させて各地でジャパンデザインワークショップを開催するなど、日本とアメリカで建築設計、都市デザイン、環境デザイン、まちづくりなどを手がけながら、教育や国際学術交流にも取り組んでいる。具体的な街をフィールドにして学生を教育する手法をとりいれている。 日本での作品には幕張新都心パティオス5住居基本設計、横浜みなとみらい21クイーンモール複合施設基本設計、大阪りんくうタウン再構想案がある。 日本での著書に 『「集合住宅」の再発見』がある。
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人物・業績
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1944年9月東京帝国大学第二工学部冶金学科卒業後、東京大学、東京工業大学、東北大学金属材料研究所で比熱測定装置の開発、合金状態図の研究などに携わり、東北大学を退官してアグネ技術センターを設立後、X線分析などの測定技術を駆使して文化財の真贋鑑定、事件・事故品の解明、クロム汚染の調査をはじめ各地の公害調査にも取り組んだ。
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1937年、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、4月から内務省都市計画東京地方委員会に勤務。当時の上司は石川栄耀。 当時、山田は将来、東京の交通の主役は鉄道から自動車へと移行し、その結果、都市内交通は爆発、道路はマヒ状態に陥ると予測していた。1938年、「東京高速度道路網計画」案に策定に参画。「東京高速度道路網計画」において、山田は4環状7放射の高速道路網を提唱、その内側の3環状線は今日の内環状線・中央環状線・外郭環状線と極めて似たルートをたどっており、また外側の環状線は今日の国道16号とよく似たルートを通っている。 「東京高速度道路網計画」では高速道路は高架にし、その下に事務所や倉庫、店舗を置くことを構想しているが、これは後に東京高速道路株式会社線の計画へとつながっていく。 1939年には都市計画大阪地方委員会に勤務。1940年、内務省に国土局が発足し1941年から同省計画課に所属。1947年に起きた飯田大火では市の復興計画に関与した。 1950年には神奈川県都市計画課長をつとめ、箱根山戦争をさばくことになる。1955年12月、東京都建設局都市計画部長に就任。1950年代を通して、首都高速道路の設計基準の策定および交通計画の策定と、都市計画の決定に尽力した。理想論を押し通し、最後は不遇のまま去った上司の石川栄耀に学び、道路建設においては現実主義を通した。 1958年、首都高速道路計画が議決され、1959年には1964年のオリンピックが東京で開催されることが決定。選手が到着する羽田空港から、オリンピック会場の代々木までに至る1号線および4号線を最優先で建設することになったが、この建設を主導した。 なお山田は回顧録にて、4車線の高速道路を建設したことについて「もともと戦災復興の都市計画で街路を拡げようとしたが、シャウプ勧告により都市計画道路の幅員を40メートル幅員まで削減させられたため3車線の道路はのせられなかった。」「当時の大蔵省は4車線ですら料金で償還できないとして反対していた」「都市高速道路はランプが近接して交通の織り込みが発生するので交通能率が落ちるため、6車線にしても能力は2分の3倍にはならないので別ルートを造った方がまし。」という趣旨の言及をしている。 また1957年の都市計画審議会では、初めて外環自動車道の建設の必要性に触れ、これが1964年の外環の都市計画決定の先駆となった。この功績により同年に、日本都市計画学会石川賞(計画設計部門)受賞。1967年には新宿駅西口広場の計画で、坂倉準三と受賞した。 1961年、首都高速道路公団副理事に就任。1971年、首都高速道路公団理事長として退任した。氏の没後、所蔵していた蔵書・資料等は「公益財団法人 東京都都市づくり公社まちづくり支援センター」にて「山田文庫」として保管されている。
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人物・業績
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秋信の業績は、中国新聞記者・論説主幹であった大牟田稔の没後、広島大学文書館に寄贈・収蔵された大牟田稔関係文書が公開されて以降、一般に知られるようになった。「個人のプライバシー最優先。特ダネを報道しない」の記者道を早くから説き、自ら実践して生涯貫いた。これは記者時代、報道による広島原爆被爆者の心の傷の深さを知ったことからであり、特に原爆小頭症患者とその家族へのかかわり、被爆者援護と被爆者の報道被害防止をライフワークとした。 秋信は、多くを語らない、酒も飲まない、煙草も吸わないが、所謂、グルメ、また目立たないがお洒落、洒脱な風格で、生涯快活な正義派であったという。
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人物・業績
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「横山紘一 (天文学者)」の記事における「人物・業績」の解説
岩手県江刺郡岩谷堂町(現:奥州市江刺岩谷堂)出身。岩谷堂中学校、岩手県立水沢高等学校を卒業し、京都大学理学部宇宙物理学科へ進学、卒業後は緯度観測所(現:水沢VLBI観測所)研究員となった。京都大学宇宙物理学教室の清水彊のもとで大学院に進む予定だったが、清水の指示により、当時新しい望遠鏡の導入に伴う定員増があった岩手県水沢市の文部省緯度観測所(現:水沢VLBI観測所)へ行くことになった。緯度観測所所属当時、国際緯度観測事業 (ILS) による極運動値は歴代の中央局ごとに天文測地常数や観測制約方法が異なり、70年を超える均質な観測があるにも拘らず、極運動の長期変動の研究に使えるものではなかった。緯度観測所では1899年のILS発足以来の全観測データを観測野帳から起こし、一貫した極運動時系列データを導くILS統一再計算事業を遂行した。その中で横山はデータ解析全般を主導し、結果は1980年に出版された。これは70年以上にわたる国際緯度観測事業の集大成といえるものであった。 世界情勢の変化を反映して緯度観測所は中曽根行革の俎上にあがり、事務事業の見直しを経て、国立天文台への改組転換された。横山は、この過程で国立天文台水沢の将来像をVERA及びRISEならびに測地・地球物理研究の三本柱とすることに重要な貢献をした。横山自身は地球回転研究系主幹を務めるとともにVERA計画の全体を高い見地から推進した。特に、穏やかながら筋を曲げない議論で国立天文台内や国内VLBI研究グループの支援を取り付ける際に大きな貢献をした。また、太平洋VLBI観測網(IRIS-P、水沢がネットワークセンター)の立ち上げは横山の広い国際的人脈なしではあり得ないことであった。 1981年から1987年にかけて国際極運動観測事業 (IPMS) の理事を務めたほか、1987年に発足した国際地球回転・基準系事業 (IERS) の初代理事長を務めた。1993年7月、日本宇宙少年団の水沢Z分団の結団に際して初代分団長を務めた。 2020年(令和2年)7月13日、慢性じん不全のため、盛岡市内の病院にて死去、79歳。
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人物・業績
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保型形式の研究で知られる。彼は「ベース・チェンジ・リフティング(英語版)」および「齋藤・黒川リフト(英語版)」を予想した。
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人物・業績
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藤沢は数学では菊池大麓についで2人目の日本人教授であった。教育行政などの政治的方面で忙しかった菊池に対し、藤沢は初めて研究論文を書き続けた日本人数学者と云われている。藤沢は大学数学科教育の改革に尽力し、ドイツ式のゼミナールを導入して後進の指導に当たり、高木貞治などの優れた数学者を生み出した。また中等数学教育にも力を入れ、中学校向け数学教科書を多数編纂し、多くの中学校・師範学校で使われた。またその一方で、西欧の純粋数学を移入するだけではなく、応用である統計学を紹介した。日本の諸統計を用いて「本邦死亡生残表」を作って生命保険業発足に貢献した。また、第1回普通選挙(1928年、第16回衆議院議員総選挙)の結果のできるだけ正確な統計を取って分析し、選挙法改正に役立たせるなどの活動も行った。
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人物・業績
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明治天皇との関係 4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と明治天皇の関係は、常に良好であったわけではない。明治10年代(1877年 - 1886年)、天皇は元田永孚・佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でないこともあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めてもらう面があり、機務六条を天皇に提示して認められている)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。 しかし、明治天皇は伊藤を信頼していた。明治天皇の好みの性格は、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことだった。伊藤はこれに当てはまり、伊藤に私財のないことを知った明治天皇は、明治31年(1898年)に10万円のお手許金を伊藤に与えている。ただし、後述にもある伊藤の芸者好きに対してはほどほどにするようにと苦言を呈したこともあった。日露戦争開戦直前の御前会議当日の早朝、伊藤に即刻参内せよという勅旨が下り、伊藤が参内すると明治天皇は夜着のまま伊藤を引見し「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べた。これに対し伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上した。また、伊藤は天皇から「東京を離れてはならぬ」とまで命じられていた。 女子教育 明治19年(1886年)、当時あまり顧みられていなかった女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会(翌年「女子教育奨励会」)」を創設した。委員には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一、岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。また、伊藤は日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵から女子大学設立計画への協力を求められ、これに協力した。 女子教育者であった津田梅子とは岩倉使節団で渡米のとき同じ船に乗ってからの交流があった。日本に帰ってから津田は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、伊藤の娘の家庭教師となり、また「桃夭女塾」へ英語教師として通っている。津田は明治18年(1885年)に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。また、津田とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の津田と国の将来について語り合っていた。伊藤からみれば津田は同じ日本人の婦人というよりは、顧問のつもりであったという。 暮らしぶり 衣食住には頓着しない性格で、大磯で伊藤と隣り合わせで住んでいた西園寺公望は食事に招かれても粗末なものばかりで難渋したといい、晩年には私邸の滄浪閣を売り払って大井の恩賜館にでも隠棲しようかと梅子夫人を呆れさせてもいる。首相在任時にも自室の装飾などには無関心で、人から高価な珍品をもらっても惜しげもなく他人に贈ってしまったりしている。庭掃除などを官邸の使用人が手抜きしても気にもかけず、そのため次の総理が伊藤と知るや、使用人一同万歳したと言われている。 女好き 女好きは当時から有名であり、女遊びの相手が掃いて捨てるほどいたことから「箒」という綽名(あだな)がついた。時には先述の明治天皇にすら「少し女遊びを控えてはどうか」と窘められたこともあるという。地方に行った際には一流の芸者ではなく、二流三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地々々の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのことであった。40度の高熱に浮かされているときでも両側に芸者2人をはべらせたという。柳橋の16歳の芸者りょうを大正天皇の伯父・柳原前光と後落を争い、結果、前光が囲って産まれたのが柳原白蓮である。このような様を、宮武外骨は自身が発行する一連の新聞で、好色漢の代表格としてパロディの手法を使いたびたび取り上げた。しかし実際は、伊藤にはそれほど多くの子どもはできなかった。衆議院議員松本剛明はその子孫の一人である。 ちなみに日本で最初のカーセックスをした人物と言われる。 民族衣装 伊藤と妻の梅子が韓国の民族衣装を着ている写真がある。韓国統監として朝鮮人の民族衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子李垠を日本に招き、日本語教育を行っている。 操り人形発言 お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が会議の席上、半ば有栖川宮威仁親王の方を向き「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、到るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたことを紹介している。 通称の変遷 当初は自身の曽祖父「利八郎」と「助左衛門」から「利」と「助」をとり「利助(りすけ)」と名づけられたが「としすけ」とも読み「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」を号にしたものである。 フグ料理との関わり 古来から毒魚とされ、明治維新後も食用を禁止されていたふぐ料理を明治21年(1888年)、周囲の反対を押し切って下関にて食した際に大変気に入り、当時の山口県知事に解禁するよう語って食用商用のきっかけをつくったと伝えられている。 父十蔵の厳しい教育と少年時代の厳しい境遇 萩における利助は、「小若党」として藩士諸家のもとで雑用を務めていた。ある日、利助の仕事ぶりを十蔵が密かに窺ったことがある。十二歳の利助は福原家の玄関近くの一間で、夜中一人で留守番をしていたが、父の姿に気付いて、泣きながらこれにすがりつかんとした。父は子を厳しく𠮟りつけ、そのまま去ったという。 児玉家に奉公していた時期、他家を訪問していた主人は、雪が降ってきたので、履物を借りて帰宅した。主人は利助に命じ、その履物を先方に返却してくるようにと言った。利助は大雪を冒して出かけ、その帰り道、余りの寒さに実家に立ち寄らんとする。しかし父は、白湯一杯さえ与えず利助を追い返したという。 伊藤公爵家系譜 『伊藤博文伝』の冒頭には、「伊藤公爵家系譜」というものがある。全九ページにわたっていて、その始祖は孝霊天皇ということになっている。 その他のエピソード 当時大磯には伊藤をはじめ、政治家の別邸が立ち並んでいたが、土地には伊藤の人柄について次のような逸話が残っている。「山縣は護衛の人が付き、陸奥は仕込み杖をもつて散歩するが、伊藤博文は、平服で一人テクテク歩き、時には着物のしりをはしょつた姿で出歩き、農家に立ち寄り話しかけ、米の値段や野菜の価格なども聞き、暮らしのことなども畑の畦に腰掛け老人相手に話すことがあった。村の農民や漁民などは伊藤を「テイショウ(大将)」と気軽に呼んで、話しかけた」 憲法制定に際して担当官に対し「新憲法を制定するに、伊藤は一法律学者であり、汝らもまた一法律学者である。それ故、我が考えが非也と思わば、どこまでも非也として意見せよ。意見を争わせることがすなわち新憲法を完全ならしめるものである」と訓示している。今よりも特権意識の強い時代の政治家としては異例の見識であるとされている。
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人物・業績
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「ウィリアム・モリノー」の記事における「人物・業績」の解説
ダブリンの豊かな新教徒の地主の家に生まれた。ダブリン大学のトリニティ・カレッジで学び、1685年に王立協会の会員となり、1680年代にダブリン科学協会(Dublin Philosophical Society)を設立した。 1692年、英語で初めて出版された光学論、Dioptrica Nova, A treatise of dioptricks in two parts(『新屈折光学』)で、望遠鏡、顕微鏡におけるレンズの働きについて記述した。また、イギリスの哲学者ロックの『人間悟性論』への応答として、モリヌークス問題を提示したことでも知られる。 息子のサミュエル・モリノー(Samuel Molyneux、1689年 - 1728年)は、政治家、天文学者となった。
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人物・業績
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「ウィリアム・クリスティ」の記事における「人物・業績」の解説
ニューヨーク州バッファロー生まれ。建築家の息子である彼は、13歳から18歳まで母親の指揮する声楽の小アンサンブルに参加していた。両親にピアノと歌を習わせてもらっていたが、祖母の影響でフランスのバロック音楽(フランス語版)に興味を持つようになった。きっかけはフランソワ・クープランのオルガン作品のディスクだった。また、幼少期には両親と一緒にヨーロッパ諸国を旅行したこともある。当初ウィリアムは医者になろうと考えていた。しかし、次第に美術に惹かれていき、1962年にハーバード大学に入学して美術史を修めた後、1966年に卒業した。一方でチェンバロに情熱を燃やした。ウィリアム・クリスティはイェール大学で勉強を続け、1966年から1970年にかけてラルフ・カークパトリックにこの楽器を師事、ケネス・ギルバートがそれに続いた。ベトナム戦争のために陸軍に入隊する事なく、1968年には予備役の訓練プログラムに参加しなければならなかった。ダートマス大学で教鞭をとる事になったが、1970年5月4日のケント州立大学銃撃事件で状況は一変した。ユネスコ音楽大使ジョン・エバーツの推薦でアメリカを離れ、BBC交響楽団に入団。1970年代に活動拠点をヨーロッパに移した。ルネ・ヤーコプスのコンチェルト・ヴォーカレのコンティヌオ奏者を務めた。1979年にはフランスで創設した声楽・器楽アンサンブル レザール・フロリサンを率い、それまで上演機会の無かったフランスのバロック・オペラを優れた演奏で復活させた。 ヘンデルやモーツァルトもレパートリーに含まれている。
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人物・業績
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京都出身。先祖は日本に饅頭の製法を伝えたとされる林浄因で、更に遡ると宋代の詩人・林逋に至る。家業の饅頭屋のかたわら、牡丹花肖柏に連歌を、清原宣賢や吉田兼右に学問を習う。漢詩、特に唐代のものに精通し、歌学では『古今和歌集』の奈良伝授を伝えた。また、室町時代に刊行された国語辞書『節用集』の改訂を行ったとされる。この節用集は、饅頭屋本と呼ばれている。他に『源氏物語林逸抄』を著す。
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人物・業績
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「ビュブロスのフィロン」の記事における「人物・業績」の解説
フィロンは、同義語辞典、科学者とその著作をカテゴリー別に編集した著作集、各都市の有名市民を記載した都市目録、皇帝ハドリアヌスの伝記を書いた。フィロンの著作にはタイトルしか知られていないものもあるが、いくつかはキリスト教徒の著作者による断片的な引用の形で今日に伝えられている。 フィロンがギリシア語で編纂した『フェニキアの歴史』は、4世紀のカイサリアのエウセビオスが『福音の備え(準備)』の中で幅広く引用しており、それらの断片的引用は再編集・翻訳されている(参考文献参照)。しかし、エウセビオスの引用は、いつもフィロンの本来の意図とは反する目的をもって行われた。例えば、フェニキアの宗教に関する記述は、単に誹謗の目的で引用されており、誤ってゾロアスター教と混同されている。また、タートス(トート)いう鷹の頭がついたエジプトの神は、4世紀のキリスト論において広く主張されていた「永遠で、生まれたものではなく、分割ができない」という性質が与えられており、ヘビ崇拝や文字の発明との混乱も見られるが、これはおそらくフィロンの元々の記述ではなく、エウセビオス自身によるものであろう。 エウセビオスによれば、フィロンは、サンキュニアトン(英語版)(架空の人物と思われる)が ビュブロスの寺院の柱から書き写して編纂したという古代フェニキア神話の秘本を発見したと主張したとされる。おそらくフィロンは、自分が収集した伝承から資料を構築し、自分の目的に合うように編集した上で、もっともらしい名前を付して信憑性を高めようとしたのであろう。サンキュニアトンはポーフェリーによる引用でも知られている。ポーフェリーによれば、サンキュニアトン(ここでもビュブロス生れとされている)は Jevo神(すなわちヤハウェ、エホバ)の司祭 ヒエロンバル (Hierombal、すなわちJeruba'al)から得た情報に基づいて、ユダヤ人の歴史を記述し、それベリタス(Berytus)の王アベルバル(Abelbal)またはアビバル(Abibal)に献呈したとされる。この話はおそらくまったく架空のものである。たいていの歴史家ならこのようなでっちあげを使うより、歴代の王の一覧で済ませる方を選んだだろうが、それではエウセビオスの計画にはそぐわなかったのだろう。 断片的に引用されたフィロンの記述から窺われるフェニキアの神の序列・系図は、長い間、ヘシオドスの『神統記(神統譜)』の一般的体系を裏付けるものと認識されていた。 ウガリト(ラス・シャムラ)にある楔形文字の銘板に刻まれている神々の名前も、同じようなパターンとなっている。w:Sanchuniathon#The_history_of_the_gods(英語版サンキュニアトンの項)に記載の系統表を参照のこと。
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人物・業績
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KS鋼、新KS鋼はいずれもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼の一種工具鋼(1913年に島根県の安来鉄鋼合資会社の伊部喜作らが国産初の合金化に成功)の一種である磁石鋼という名称になっており、工具鋼が鉄鋼材料で最も硬い部類に属するので、これが現代の硬質磁性材料と呼ばれる由縁である。 研究組織の運営にも手腕を発揮し、東北大学金属材料研究所の設立に尽力し、同研究所を材料科学の世界有数の拠点に拡充発展させる礎を築いた。 日本金属学会の創設(1937年)を提唱し尽力した。初代会長を務めた。 航空計器材料研究所(のちの電磁材料研究所 =電磁研)初代理事長。 無類の実験好きとして知られ、「今日は晴れているから実験しよう」と言って実験室に籠もり、その翌日雨が降れば「今日は雨だから実験しよう」と言ってやはり実験をしていたと言われる。また、自身の結婚式に姿を現さないため、よもやと思って探しに行ったところ大学の研究室で実験をしていたという逸話もある。 自身が指導している研究者に対しては毎日のように実験の進行状況を「どおだあん(どんな状況だ?)」と言って確認していただけでなく、論文に対しても細かい指示を行っていた。このため、本多が輩出した研究者たちは「本多スクール」の出身者ともいわれる。本多は研究者としてだけでなく研究指導者としてもその才能を発揮していたといえるだろう。 身の回りの細かいことは気にかけず大雑把であったという。東北帝大総長当時、式典での総長による教育勅語朗読は、少なくともどこか一ヶ所を読みが間違うか読み飛ばすのが常であった。 羽織は紐の結び目が左右で大きく偏って結ばれ、雨でも晴れでもいつも洋傘を手に歩いていた。「傘があれば、雨でも濡れんでええわなあ。晴れなら荷物と反対の手にバランスが取れてええわなあ」と語ったと伝えられる。 身なりもこだわらず、着物は古いものをいつまでも長く用い、履物は底が相当磨り減るまで履いた。 雑種の犬を連れて大学に出勤したと伝えられている。 鉄に関して、「鉄」の旧字体「鐵」が「金・王・哉」に分解できることから、「鐵は金の王なる哉」と評した。また、色紙に「今が大切」「つとめてやむな」と揮毫したものが残されている。 小さいころは学校の成績も悪く、大きな体で、年中青ばなをたらし、「はなたらしの光さん」とあだ名をつけられる学校嫌いの子だった。 評定河原球場に5千円の私費を投じスタンドを寄贈した。
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人物・業績
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認知症を含む大脳疾患の診断や治療においては、精神医学と神経学が密接に協力しあう専門領域である「神経精神医学」が不可欠であるとの観点から、国際神経精神学会 の設立に関わるとともに、我が国においても、この専門領域の確立を提唱した 精神医学のなかでも、大脳の器質性疾患による精神障害を主に研究した。とくに、アルツハイマー病、前頭側頭葉変性症、クロイツフェルド・ヤコブ病、パーキンソン病、脳血管性障害などの精神症状・神経症状や脳病変の研究を行った。また、老年精神医学の領域において、認知症や老年期のうつ病、幻覚、妄想、せん妄などの臨床研究に関わった。
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人物・業績
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東京帝国大学卒業の際の論文は、近世史をテーマにしたものであった。理由は、当時の歴史学界においては、維新以後の歴史については、歴史家は触れてはいけないという空気が強かったからである(聞き書きによる回想録『日本近代史学事始め』より)。 戦時下では皇国史観に対して批判的立場を採り、東京帝国大学を中心とした官学アカデミズム歴史学や、戦後流行したマルクス主義歴史学とも異なる、実証主義を本領とした独自の近代史研究を構築した(『著作集 第8巻』解説より)。 父・利武の没後は、侯爵として貴族院議員を務めた。 戦後は歴史学者として、名古屋大学教授、立教大学文学部史学科教授を歴任し、日本近代史学研究を、草創期から大きく発展させた。 研究論考は、政治史・文化史・教育史等と広範に亙るが、特に大学史・史学史などの学芸史にすぐれた業績を残している。明治文化研究会に参加し、『東京帝国大学五十年史』の編纂に従事した際には教育史・文化史関係を、薩藩史研究会に参加し、重野安繹家文書の調査を通じては史学史の研究を、シーボルト文献の調査を通じ、洋学・蘭学史を研究紹介した。 多面的な活躍は、出自と絡みたどった経歴と深く関係している。戦後、国立国会図書館憲政資料室の開設にあたり、明治の元勲の子孫たちが多く、大久保を通じ資料を提供し、近現代史学研究を開拓発展させたことも特筆される(『日本近代史学事始め』より)。
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人物・業績
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『象牙の塔を出でて』のほか、朝日新聞に連載した『近代の恋愛観』は、いわゆる恋愛至上主義を鼓吹し、ベストセラーとなって、当時の知識層の青年に大きな影響を与えた。のち中国語訳され、第一次大戦後の中国青年にも大きな影響を与えている。『近代の恋愛観』などは、1960年頃までは読まれていたが、現在ではほとんど読まれていない。 なお白村自身は、親に縁談を勧められて断ったが惜しくなり、その女性宛の原稿をいくつも発表して結婚にこぎつけたとされている(『朝日新聞記事にみる恋愛と結婚』)が、真偽のほどは定かではない。
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人物、業績
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薬丸家は薬丸兼陳以来、代々示現流の東郷家の弟子であったが、実際には代々家伝で技を伝承しており、東郷家から教授されることは段々なくなっていた。また、東郷家の不振もあり、師範代的な地位で示現流を支えていた。その一方で家伝の剣術は示現流とは異なる独自の発展を遂げていた。兼武は次々に他流試合を申し込まれるもことごとく打ち破り、また弟子も多く、ついに如水伝、ジゲン流を称して東郷家より独立した。如水は薬丸兼陳の号である(薬丸自顕流)。 ところが、この独立は弟子の移動があるなどして円満なものではなく、示現流史範家の東郷実位及び藩主の島津斉興(示現流の皆伝だった)より示現流の異端として忌避される。
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