広瀬淡窓とは? わかりやすく解説

ひろせ‐たんそう〔‐タンサウ〕【広瀬淡窓】

読み方:ひろせたんそう

[1782〜1856江戸後期儒学者豊後(ぶんご)の人。名は建。字(あざな)は子基。別号、青渓など。咸宜園(かんぎえん)を開き子弟教育大村益次郎高野長英はその弟子。著「遠思楼詩鈔」「約言」など。


ひろせたんそう 【広瀬淡窓】

江戸後期儒学者漢詩人豊後日田富商長男通称は求馬。別号は苓陽・青溪・遠思楼主人亀井南冥らに学び病弱のため家業を弟に譲って私塾成章舎を創り、これが江戸時代最大私塾咸宜園発展能力等級試験昇級など工夫をこらし、多く英才育てた。著『約言』『淡窓詩話』他。(一七八二~一八五六)。弟旭荘も学者詩人咸宜園をよく守り佐久間象山らと親交した。

広瀬淡窓

読み方ひろせ たんそう

江戸後期儒者豊後生。名は建、字は子基、通称は求馬、別号に苓陽・青渓・遠思楼主人等。塾舎咸宜園門生に、高野長英大村益次郎長三洲等がいる。のち弟旭荘に咸宜園委ねる安政3年1856)歿、75才。

広瀬淡窓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/04 15:07 UTC 版)

広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日1782年5月22日) - 安政3年11月1日1856年11月28日[1])は、江戸時代儒学者、教育者、漢詩人豊後国日田の人。淡窓はである。通称は寅之助、のちに求馬(もとめ)。は建。は廉卿あるいは子基。当初の号は別号は青渓。死後、弟子たちにより文玄先生と諡されたという。


  1. ^ 朱子学においては「天」と「」は同じものであるが、淡窓の考える「天」は「理」とは別の存在であり、「理」を理解すれば人間は正しい行いをして暮らすことができる、しかしその「理」を生む「天」は理解することができない、とする
  2. ^ 「ろう」は木へんに龍
  1. ^ "広瀬淡窓". 朝日日本歴史人物事典. コトバンクより2022年5月18日閲覧
  2. ^ a b c 木藪正道著『日田の歴史を歩く』文芸堂 1990年
  3. ^ 大分県教育会 1927, p. 128.
  4. ^ 高橋昌彦[2016:284-305]
  5. ^ 長岡翠子・橋本有里子(第4章)「近世私塾の教育史的研究」、慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会『2007年度 山本ゼミ共同研究報告書』慶應義塾大学文学部教育学専攻山本研究会、2008年 (PDF) (2016年10月22日閲覧)
  6. ^ 井上源吾「広瀬淡窓における敬天説の成立」、井上源吾著『人文・社會科學研究報告』(第1号)、長崎大学学芸学部、1951年(2016年10月22日閲覧)
  7. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.36
  8. ^ 桂林荘雑詠諸生に示す(休道)
  9. ^ 2012年11月03日 大分合同新聞「広瀬淡窓最初の塾舎「長福寺学寮」礎石確認」
  10. ^ a b c 「廣瀬淡窓旧宅及び墓」の国史跡追加指定並びに名称変更の概要資料”. 日田市. 2023年5月4日閲覧。


「広瀬淡窓」の続きの解説一覧

広瀬淡窓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 13:54 UTC 版)

亀井少琹」の記事における「広瀬淡窓」の解説

広瀬淡窓は弟子たちとともに1845年弘化2年4月23日47歳の少琹と夫昭陽今宿屋敷好音亭)に訪ねた際の印象を『懐旧楼筆記』に記しており、庄野寿人の『閨秀 亀井少琹伝』に以下の通り記載されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}淡窓が、今宿亀井家訪問した時に好音書斎淡窓が入るのと一緒に門人たちも、どやどや入室しのである淡窓は、次の部屋弟子たちは待つ。後に弟子呼び込み紹介しよう思っていたのである。それが、ことわりもなしに一緒に入室し無礼とがめたのは当然である。これには弟子たち返す言葉がなかったのであるが、その中の一人が「少琹を、早く見たかったのです」と全員心中語ったのに、全員そうです。と相槌を打つような状況呈した。これには、淡窓も、いささか笑った表情次の言葉をしなかったと思われるユーモア溢れ一座師弟雰囲気がよくうかがえる本稿冒頭にした少琹艶詩は、当時から広く知られ、その余波は少琹の恋歌にふさわしい美人像を生んだのも当然である。これが、温良な広瀬淡窓門人に、話題女性一目早く見たいとした書生気分がわかる一文である。 —庄野寿人、『閨秀亀井少琹伝』亀陽文庫・能古博物館1992年68頁 ここで言及される「少琹艶詩」“九州第一 今夜君が為に開く 花の真意知らんと欲せば 三更の月を踏んで来れ”について 『閨秀亀井少琹伝』には以下の通り記載されている。 かねてより求愛されていた男性に、艶麗、かつ大胆に答えて男を誘った詩である。この漢詩は、厳格な漢学者の「男女七才にして席を同じくせず」とする時代、その家庭の子女に絶対にあり得ないとして、少琹作詩否定する意見も多い。未だその断定がされない詩である。」 —庄野寿人、『閨秀亀井少琹伝』亀陽文庫・能古博物館1992年、4頁

※この「広瀬淡窓」の解説は、「亀井少琹」の解説の一部です。
「広瀬淡窓」を含む「亀井少琹」の記事については、「亀井少琹」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「広瀬淡窓」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



広瀬淡窓と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「広瀬淡窓」の関連用語

広瀬淡窓のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



広瀬淡窓のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの広瀬淡窓 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの亀井少琹 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS