脇蘭室とは? わかりやすく解説

脇蘭室

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/21 05:59 UTC 版)

脇 蘭室(わき らんしつ、1764年明和元年) - 1814年12月14日文化11年11月3日))は、江戸時代末期に活躍した豊後国速見郡小浦村(現在の大分県速見郡日出町豊岡)出身の儒学者。名は長之、字は子善、通称は儀一郎。蘭室、菊園、愚山と号した。

略歴

明和元年(1764年)に、豊後国速見郡小浦村の庄屋であった脇家の分家に生まれた。先祖は南北朝時代南朝の忠臣脇屋義助新田義貞の弟)と言われる。

天明4年(1784年)、21歳の時に熊本藩藩校時習館を訪ねて藪孤山朱子学を半年間学び、次いで両子(現大分県国東市)の三浦梅園大坂中井竹山懐徳堂で学業を修めた。

寛政元年(1789年)、蘭室は郷里の小浦村に戻ると、私塾菊園を開いた。寛政3年(1791年)には14歳の帆足万里がこの塾に入門している。

寛政9年(1797年)には、熊本藩の藩校時習館の訓導として迎えられたが、他藩出身の蘭室は受け入れられず、翌年、同館を辞すことになる。しかし、その才を惜しんだ藩主・細川斉茲により、熊本藩の飛び地であった大分郡(現在の大分市)鶴崎に迎えられて塾を開き、藩士子弟の教育にあたった。この塾での高弟に毛利空桑がいる。

文化11年(1814年)、同地にて51歳で没。大分市鶴崎寺司浜には、帆足万里の書で「文教脇先生墓」と刻まれた墓があり、大分県の史跡に指定されている[1]

大正5年(1916年)、正五位を追贈された[2]

著書等

  • 小串信正編著『脇蘭室関係資料集』(脇蘭室を読む会、2014年)
  • 小串信正編著『三浦梅園と脇蘭室』(私家版、2013年)
  • 久多羅木儀一郎編『脇蘭室全集』(双林社、1980年)
  • 筒井清彦著『脇蘭室・野上弥生子』(大分県教育委員会、1980年)
  • 筒井清彦著『愚山脇蘭室先生』(豊岡小学校創立百周年記念行事事業達成会、1974年)

脚注

  1. ^ まなびのガイド:脇蘭室墓”. 大分市教育委員会 社会教育課. 2020年11月14日閲覧。
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.41




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