亀井昭陽とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 労働 > 職業 > 儒者 > 亀井昭陽の意味・解説 

かめい‐しょうよう〔かめゐセウヤウ〕【亀井昭陽】

読み方:かめいしょうよう

[1773〜1836]江戸後期儒学者筑前の人。名は昱(いく)。南冥の長男。父南冥の跡を継ぎ徂徠学奉じ、のち徂徠学朱子学取り入れた経学大成。著に「左伝纉考」「論語語由述志」「読弁道」など。


亀井昭陽

読み方かめい しょうよう

江戸後期儒者筑前生。名は昱、字は元鳳通称は昱太郎別号に月窟。亀井南冥長男家督継ぎ筑前福岡藩儒となるが、後に免官。「政事」と「学問」の一致説き徂徠学基本朱子学取り入れて家学大成した謹厳実直人柄で、博学知られ経書精密な注釈本領発揮した弟子広瀬淡窓・旭荘兄弟がいる。著に『論語語由術志』『家学小言』等。天保7年(1836)歿、64才。

亀井昭陽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 07:29 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

亀井 昭陽(かめい しょうよう、安永2年8月11日1773年9月27日) - 天保7年5月17日1836年6月30日))は、江戸時代後期の古文辞学系の儒学者。父・亀井南冥の学業を継ぎ、徂徠学を基本に朱子学を取り入れて家学である亀門学を大成した。は昱(いく)、は元鳳(げんぽう)、通称は昱太郎、昭陽はそのである。別号に空石、月窟、天山遯者、幽人などがある。

経歴

福岡藩の儒医である亀井南冥の長男として、筑前国唐人町に生まれる。若くして父の親友である徳山藩役藍泉の塾に入り、帰国した年に『成国治要』を著し治国策を論じた。南冥とともに「政事」と「学問」の一致を説き、学問における政治的実践を重んじる点において徂徠学の影響下にあるが、徂徠学を絶対視していない。若くから頼山陽と交流し、佐賀の古賀穀堂とともに、「文政の三太郎」と称された(山陽の通称が久太郎、昭陽が昱太郎、穀堂が壽太郎であったため)。

寛政4年(1792年)、朱子学を正学とし古文辞学などの古学を規制する寛政異学の禁の余波が福岡藩にも及び、南冥が藩校甘棠館の祭酒(学長)を罷免されたことを受けて家督を継ぎ、わずか20歳にして福岡藩の藩儒となる。その後、亀門学を西海では右に出るものなしと云われる程に発展させた。

寛政10年(1798年)、唐人町の商家から発した大火により甘棠館校舎が焼失したため甘棠館は廃校となり、免官となる。その後は城代組平士として勤めながら、江戸で南冥著の『論語語由』の開板に従事し、また自身も経学研究に没頭し『周易僣考』、『毛詩考』、『論語語由述志』等、多数の著述を残した。一方で、私塾として亀井塾を開き、広瀬淡窓広瀬旭荘らを育てた。 没後、父亀井南冥と同じく浄満寺に葬られる。

大正13年(1924年)、正五位を追贈された[1]

脚注

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.51



亀井昭陽と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「亀井昭陽」の関連用語

亀井昭陽のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



亀井昭陽のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの亀井昭陽 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS