摂政就任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:25 UTC 版)
「エドワード・シーモア (初代サマセット公)」の記事における「摂政就任まで」の解説
1506年頃、ウィルトシャーのジェントリのサー・ジョン・シーモア(英語版)とマーガレット・ウェントワース(英語版)の子として生まれた。父ジョンはヘンリー8世の寝室係侍従だったものの、一介の騎士に過ぎなかった。 妹のジェーンはヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンと2度目の王妃アン・ブーリンの女官だったが、このジェーンが王の目にとまり、1536年に3度目の王妃となり、翌1537年に王の唯一の嫡出の男子(エドワード6世)を産んだことで、シーモア家は栄達のきっかけをつかんだ。 ジェーンとヘンリー8世が正式に結婚したのを機としてエドワードは1536年6月5日にビーチャム子爵(Viscount Beauchamp)に叙せられ、宮廷につかえるようになった。ついで皇太子エドワード誕生を機として1537年10月18日にハートフォード伯爵(Earl of Hertford)に叙され、同年枢密顧問官に列した。 宮廷内ではカンタベリー大司教トマス・クランマーとともに改革派のプロテスタントとして活動した。 1542年から1543年まで海軍卿(英語版)、1543年から1549年まで大侍従卿を務めた。外交使節としてたびたび外国にも訪問した。1544年から1545年にかけては北部総督(Lieutenant General in the North)を務め、スコットランド侵攻の指揮を執った。1546年には海外派遣軍の司令官に就任し、スコットランドやそれを支援するフランスと戦った。 1546年冬にヘンリー8世が病に伏せるようになると、第3代ノーフォーク公トマス・ハワードとの対立が表面化し、1546年12月にノーフォーク公を失脚させることに成功した。
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