シーモア家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/14 17:15 UTC 版)
シーモア家(英語: Seymour family)は、イギリスの貴族の家系。
1547年にサマセット公爵に叙せられたエドワード・シーモアを祖とする。2016年現在、爵位を持つシーモア家にサマセット公爵家とその分流であるハートフォード侯爵家の2つがある。
歴史
貴族としてのシーモア家の祖であるエドワード・シーモア (1506–1552)は、一介のナイトの息子にすぎなかったが、妹のジェーン・シーモアがテューダー朝の国王ヘンリー8世の3人目の王妃となったことで急速に出世し、ビーチャム子爵やハートフォード伯位を与えられた。1547年1月に甥にあたる幼王エドワード6世が即位すると、その摂政として権勢をふるい、同年2月にサマセット公爵に叙せられたが、政敵である初代ノーサンバーランド公爵ジョン・ダドリーとの政争に敗れ、1552年1月に大逆罪で処刑され、爵位も剥奪されるという末路をたどった[1][2]。
この初代サマセット公は2度結婚しており、先妻キャサリン・フィロルとの間に男子2人、後妻アン・スタンホープとの間に4男6女を儲けていた[2]。
アンとの間の息子エドワード・シーモアは、1559年にハートフォード伯爵に叙された。その孫であるウィリアム・シーモアも1640年にハートフォード侯爵に叙され、さらに1660年には曾祖父の爵位第2代サマセット公爵位の復権を許されている。特別継承権の規定で、サマセット公爵位の継承順位は後妻アンの男子が優先されていたためである[2]。
一方、先妻キャサリンの系統の孫エドワード・シーモアは、1611年に準男爵に叙せられている。この準男爵家は自分たちこそがシーモア家の嫡流との意識が強かったという[3]。
第4代準男爵サー・エドワード・シーモアの次男フランシス・シーモア=コンウェイは、1703年にコンウェイ男爵に叙されており、さらにその息子第2代コンウェイ男爵フランシス・シーモア=コンウェイは1750年にハートフォード伯爵、1793年にハートフォード侯爵に叙せられている。これがハートフォード侯爵家の始まりである[4]。
サマセット公爵位の方も1750年に第7代サマセット公爵アルジャーノン・シーモアが死去したことで後妻アンの系統の男系男子が絶え、先妻キャサリンの家系に移ることになり、第6代準男爵エドワード・シーモアが第8代サマセット公爵位を継承した。以降今日に至るまでサマセット公爵位は彼の男系男子によって継承されている[2]。
2016年現在、サマセット公爵家の当主は第19代サマセット公ジョン・シーモアである[2]。一方ハートフォード侯爵家の当主は第9代ハートフォード侯ヘンリー・シーモアである[4]。
家系図
ジョン・シーモア (1475-1536) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
キャサリン・フィロル (1507頃-1535頃) | 初代サマセット公 エドワード・シーモア (1500頃–1552) | アン・スタンホープ (1497頃-1587) | ヘンリー・シーモア (1503頃–1578) | 初代シーモア男爵 トマス・シーモア (1508頃–1549) | キャサリン・パー (1512–1548) | ヘンリー8世 (1491-1547) | ジェーン・シーモア (1508頃–1537) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エドワード (1528頃–1593) | 初代ハートフォード伯 エドワード (1539–1621) | エドワード6世 (1537-1553) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初代準男爵 エドワード (1563頃–1613) | ビーチャム卿 エドワード (1561–1612) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2代準男爵 エドワード (1580頃–1659) | 2代サマセット公 ウィリアム (1588–1660) | 初代シーモア男爵 フランシス (1590頃–1664) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3代準男爵 エドワード (1610–1688) | ビーチャム卿 ヘンリー (1626頃–1654) | 4代サマセット公 ジョン (1646頃–1675) | 2代シーモア男爵 チャールズ (1621頃–1665) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4代準男爵 エドワード (1633–1708) | 3代サマセット公 ウィリアム (1650–1671) | 5代サマセット公 フランシス (1658–1678) | 6代サマセット公 チャールズ (1662–1748) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5代準男爵 エドワード (1663–1740) | 初代コンウェイ男爵 フランシス (1679–1732) | 7代サマセット公 アルジャーノン (1684–1750) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8代サマセット公 エドワード (1695–1757) | 初代ハートフォード侯 フランシス (1718–1794) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
9代サマセット公 エドワード (1717–1792) | 10代サマセット公 ウェッブ (1718–1793) | フランシス (1726–1799) | 2代ハートフォード侯 フランシス (1743–1822) | ヒュー (1759-1801) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
11代サマセット公 エドワード (1775–1855) | フランシス (–1822) | 3代ハートフォード侯 フランシス (1777–1842) | ジョージ (1718–1793) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
12代サマセット公 エドワード (1804–1885) | 13代サマセット公 アーチボルド (1810–1891) | 14代サマセット公 アルジャーノン (1813–1894) | フランシス (1788–1866) | 4代ハートフォード侯 リチャード (1800–1870) | 5代ハートフォード侯 フランシス (1812–1884) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15代サマセット公 アルジャーノン (1846–1923) | フランシス (1815–1870) | 6代ハートフォード侯 ヒュー (1843–1912) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16代サマセット公 エドワード (1860–1931) | 7代ハートフォード侯 ジョージ (1871–1940) | ヘンリー (1878–1939) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17代サマセット公 イヴリン (1882–1954) | 8代ハートフォード侯 ヒュー (1930–1997) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
18代サマセット公 パーシー (1910–1984) | 9代ハートフォード侯 ヘンリー (1958-) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
19代サマセット公 ジョン・シーモア (1952-) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
注釈
出典
- ^ 森護 1987, p. 60-61.
- ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Somerset, Duke of (E, 1546/7)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月6日閲覧。
- ^ 森護 1987, p. 71.
- ^ a b Heraldic Media Limited. “Hertford, Marquess of (GB, 1793)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月6日閲覧。
参考文献
- 森護 『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。
シーモア家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 15:54 UTC 版)
エドワード・シーモア(初代)(1506年ごろ - 1552年)は一介のナイトの息子であったが、妹ジェーン・シーモアが国王ヘンリー8世のお手付きとなり、1537年に3番目の王妃となって、その間に皇太子エドワード(エドワード6世)を儲けたことで急速に出世する。ジェーンが王妃となったのを機として1536年6月5日にビーチャム子爵(Viscount Beauchamp)に叙され、ついで皇太子エドワード誕生を機として1537年10月18日にハートフォード伯爵(Earl of Hertford)に叙された。そして1547年1月に甥エドワード6世が9歳で即位すると、護国卿(1547年 - 1549年)として後見することになり、1547年2月16日にサマセット公爵及びアッシュのシーモア男爵(Baron Seymour of Hache)に叙せられた。しかし後に政敵ウォリック伯ジョン・ダドリー(後の初代ノーサンバーランド公)との政争に敗れ、1552年1月22日に大逆罪で処刑され、爵位は剥奪された。 その息子であるエドワード・シーモア(1539年–1621年)は、1559年1月13日にハートフォード伯爵とビーチャム男爵(Baron Beauchamp)を新規に与えられている。彼は1560年にキャサリン・グレイ(英語版)(ジェーン・グレイの妹)と秘密結婚したことで知られる。 その孫である第2代ハートフォード伯ウィリアム・シーモア(1588年-1660年)は、1640年6月3日にハートフォード侯爵(Marquess of Hertford)に叙された。彼は王政復古直後の1660年9月13日の議会の制定法によって曽祖父の爵位サマセット公爵位とアッシュのシーモア男爵位の復権が認められた。 長命だった2代公の死後、子供たちは長男・次男・三男まで既に死去していたため、爵位は三男の子のウィリアム・シーモア(第3代)(1654-1671)が継承した。だがこの3代公も早世してしまったため、爵位は叔父(先代ウィリアムの四男)のジョン・シーモア(1646年以前 - 1675年)が継承した。1675年に4代公が死去すると、ハートフォード侯の爵位は消滅した。 サマセット公爵位を継承したのは、4代公の従兄弟にあたる第3代トローブリッジのシーモア男爵(英語版)フランシス・シーモア(1658年 - 1678年)である。しかし彼も1678年に未婚のままイタリアで暗殺された。 爵位は弟のチャールズ・シーモア(第6代)(1662年 - 1748年)が継承する。彼は高慢な性格で威張り散らしたので「高慢な公爵(The Proud Duke)」とあだ名された。政治的野心も強かったが、トーリー党とホイッグ党双方のこうもりをしていたため、どちらの党派からも信用されず、主馬頭(英語版)以上には出世しなかった。しかし彼は男子後継者のいない第11代ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシーの跡取娘エリザベス・パーシーと結婚してパーシー家の広大な所領を手にすることに成功した。エリザベスが死去すると彼は再婚したが、彼が1748年に86歳で天寿を全うすると、爵位は先妻エリザベスとの子であるアルジャーノン・シーモア(第7代)(1684年 - 1750年)が継承した。 7代公はそれ以前の1722年1月21日に母方の家系に伝わっていたパーシー男爵(英語版)に叙せられていた。64歳と当時にしては高齢でサマセット公爵位を継承したが、その時点で彼の長男は死去しており、男子の爵位継承者が残っていなかった。そこで彼は翌1749年に所領の大分割を行い、娘エリザベスとその婿ヒュー・スミソンに遺産の多くを与えた。それに合わせて同年10月2日には特別継承権で娘婿ヒュー・スミソンに継承可能なノーサンバランド伯とノーサンバーランド州におけるワークワース城のワークワース男爵(Baron Warkworth, of Warkworth Castle in the County of Northumberland)に叙され、さらに同年10月3日に妹の子供のチャールズ・ウィンダムに継承可能なイグリモント伯爵とカンバーランド州におけるコッカマス城のコッカマス男爵(Baron Cockermouth, of Cockermouth Castle in the County of Cumberland)に叙せられた。 こうして1750年にアルジャーノンが亡くなると、残った所領がルールに従って継承された。ハートフォード伯爵位とビーチャム男爵位とトローブリッジのシーモア男爵位は消滅し、サマセット公爵位は初代公爵にさかのぼっての分流である第6代ベリー・ポメロイ準男爵エドワード・シーモア(第8代)が継承した。 8代公の死後、爵位は長男のエドワード・シーモア(第9代)(1717年 - 1792年)が継承したが、未婚のまま亡くなったために次男のウェッブ・シーモア(第10代)(1718年 - 1793年)が継承した。10代公も間もなく死去し、爵位は長男で有名な数学者のエドワード・アドルファス・サンモール(第11代)(1775年 - 1855年)が継承する。彼は洗礼を受けて名前をシーモアからサンモール(St. Maur)に変えているが、その後もシーモアはしばしば使われる。 1855年に11代公が死去すると、爵位は長男のエドワード・アドルファス・サンモール(第12代)(1804年 - 1885年)が継承する。彼は自分が単にサマセット公の子孫であるだけでなく、フランスの旧家サンモール家の末裔にもあたると主張してヴィクトリア女王にその爵位を求め、1863年6月19日にデヴォン州におけるベリー・ポメロイのサンモール伯爵(Earl St Maur, of Berry Pomeroy in the County of Devon)に叙せられた。この時以降、長男エドワード・アドルファス・フェルディナンド・サンモールはサンモール伯を儀礼称号としている。 1885年に12代公が81歳で死去した時、既に息子たちに先立たれていたために、サンモール伯爵位は廃絶し、一方サマセット公爵位は弟のアーチボルド・ヘンリー・アルジャーノン・サンモール(第13代)(1810年 - 1891年)が継承した。しかしこの際に12代公は自分の長男の非嫡出子2人と自分の娘3人に巨額の財産を残したため公爵家の財産は散逸した。 13代公が死去するとその弟アルジャーノン・パーシー・バンクス・サンモール(第14代)(1813年 - 1894年)が継承した。3年後にアルジャーノンも亡くなると、その息子のアルジャーノン・サンモール(第15代)(1846年 - 1923年)が爵位を継承した。 1923年に15代公が死去すると、彼にも子供がいなかったために遠縁にあたるエドワード・ハミルトン・シーモア(第16代)(1860年 - 1931年)が爵位を継承した。エドワードは第8代サマセット公の末子の子孫であり、実に170年前に枝分かれした家系である。エドワードの爵位は息子のエバリン・フランシス・シーモア(第17代)(1882年 - 1954年)が継承し、その子パーシー・ハミルトン・シーモア(第18代)(1910年 - 1984年)へと引き継がれた。 現在、サマセット公爵位は1952年に生まれたジョン・マイケル・エドワード・シーモア(第19代)が保有している。また、法定推定相続人は1982年に生まれたシーモア男爵セバスチャン・シーモアである。 家訓は「義務による信頼(Foy Pour Devoir)」。所有邸宅は南デヴォンにあるベリー・ポメロイ(英語版)とサマセット・メイデン・ブラッドレイ(英語版)にあるブラッドレイ・ハウス(英語版)である。
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