エリザベス・パーシーとサマセット公シーモア家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:43 UTC 版)
「パーシー家」の記事における「エリザベス・パーシーとサマセット公シーモア家」の解説
11代ノーサンバランド伯は男子を残さなかったが、娘エリザベス・パーシー(1667-1722)があった。彼女は中世・近世のノーサンバランド伯パーシー家と近代のノーサンバランド公パーシー家(スミソン家)を繋ぐ存在である。ノーサンバランド伯爵位は男系男子に限られるので彼女が爵位を継承することはできなかったが、アニック城をはじめとする北部の所領、サセックス州南部のペットワース荘園、ノーサンバランド・ハウスやサイオン・ハウスなどロンドンの邸宅といったノーサンバランド伯爵家の財産は彼女が相続した。 彼女はスキャンダルな人生を送ったことで知られる。1679年に第2代ニューカッスル公爵ヘンリー・キャヴェンディッシュの息子オーグル伯ヘンリー・キャヴェンディッシュ(英語版)と結婚したが、この最初の夫は父から爵位を継承する前に1680年に死去。翌1681年にウィルトシャーの富豪トマス・シン(英語版)と秘密結婚したが、その直後にオランダへ出奔し、そこでスウェーデン貴族(スウェーデン語版)のケーニヒスマルク伯爵カルル・ヨーハン(スウェーデン語版)と知り合った。エリザベスの敵によれば彼女はケーニヒスマルク伯爵に夫の殺害を依頼し、伯爵は3人の刺客にトマス・シンの馬車を襲撃させ、彼に致命傷を負わせた。伯爵と3人の実行犯は逮捕されたが、伯爵は外国貴族の特権を行使して釈放され、3人の実行犯のみ死刑となったが、これ以来エリザベスには「殺人者」という疑惑が付きまとった。 その後彼女はイングランドに帰国し、1682年に第6代サマセット公チャールズ・シーモア(1662-1748)と三度目の結婚をした。さらにサマセット公夫人としてアン女王の宮廷で女官として活躍した。トーリー党支持者であるジョナサン・スウィフトはホイッグ党系の彼女を毛嫌いし、彼女のことを「殺人者」と非難したことでサマセット公爵夫人と仲の良いアン女王に嫌われ、イングランド主教や首席司祭への出世の道が閉ざされている。 6代サマセット公とエリザベスの間の子であるアルジャーノン・シーモア(1684-1750)は、1722年の母の死後の1723年1月21日にパーシー男爵として議会招集されているが、これは当時、エリザベスが11代伯から1299年の議会召集令状によるパーシー男爵を継承していると誤認されていたからである。実際には1299年創設のパーシー男爵は1406年の私権剥奪で剥奪されており、11代伯が保持していたパーシー男爵位は1557年に勅許状で新設されたものであるため男系男子に限定されるものであり、ノーサンバランド伯位と一緒に廃絶している。したがってこの時のパーシー男爵位は新設の物と見なされる(錯誤により創設された男爵)。1748年に父が死去して第7代サマセット公爵位を襲爵したが、彼には男子がなかったので1749年10月2日に彼の娘エリザベス(英語版)の夫である第4代スミソン準男爵(英語版)ヒュー・スミソン(1714頃-1786)を特別継承者とするノーサンバランド伯爵とノーサンバランド州におけるワークワース城のワークワース男爵に叙位された。
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