エリザベス・ビスランドとは? わかりやすく解説

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エリザベス・ビスランド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/14 12:01 UTC 版)

エリザベス・ビスランド・ウェットモア
ビスランド(1891年)
生誕 (1861-02-11) 1861年2月11日
アメリカ合衆国ルイジアナ州セントメアリー郡
死没 1929年1月6日(1929-01-06)(67歳没)
バージニア州シャーロッツビル
職業 作家
配偶者 チャールズ・B・ウェットモア(1854年10月6日 - 1919年6月1日[1][2][3][4]
トーマス・シールズ・ビスランド(1837年 - 1908年)[5]
マーガレット ・(ブロンソン)・ ビスランド (1858年6月24日結婚)
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エリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア (Elizabeth Bisland Wetmore、1861年2月11日 - 1929年1月6日)は、アメリカジャーナリスト編集者で、1889年から1890年にかけて、同じ女性記者のネリー・ブライと世界一周レースを競い、世界の注目を集めた。日本においては小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と親交を結び、八雲の没後に英語による伝記を執筆した。

前半生

ビスランドはルイジアナ州セントメアリー郡のフェアファックス・プランテーションに、1861年2月11日に生まれた。一家は南北戦争中、フォート・ビスランドの戦い英語版に先立ち疎開している。家族がプランテーションに戻ってからの生活は困難を極め、彼女が12歳の時に、父が相続した実家のある同じルイジアナ州のナチェズ英語版に転居した[6]。ビスランドは10代でその文筆家としての経歴をニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット(タイムズ=ピカユーンの前身の一つ)に「B・L・R・デーン」の筆名で詩を投稿することから始めた[6][7][8]。ひとたび執筆活動が家族や新聞の編集者に知られると稿料が支払われ、ほどなく彼女はニューオーリンズに赴いてニューオーリンズ・タイムズ・デモクラットで働くようになる[6]。この新聞社にはラフカディオ・ハーンが在職しており、ハーンと親交を結んだ[9]。1887年頃、ビスランドはニューヨークに移り[10]ザ・サン』から現地での最初の仕事を得た[6]。1889年まで、彼女はニューヨーク・ワールドを含む多くの出版社で働いた[6]。ビスランドは雑誌『コスモポリタン』の編集者になり、その一方で『アトランティック』や『ノースアメリカン・レビュー英語版』といった雑誌に寄稿していた[11]

世界一周旅行

ネリー・ブライとの世界一周競争中、客船の甲板上でのエリザベス・ビスランド

1889年11月、ニューヨーク・ワールドは、ジュール・ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』の主人公・フィリアス・フォッグによる80日間の空想旅行を上回る試みとして、ネリー・ブライ記者を世界一周に派遣すると発表した。この耳目を集める宣伝を受け、創刊から3年しか経っていない雑誌『コスモポリタン』を買収したばかりのジョン・ブリスベン・ウォーカー英語版は、ビスランドを急ぎ旅行に派遣することを決める[12]。呼ばれてから6時間後にビスランドはニューヨークから西へ向けて出発した。一方、ブライは蒸気船に乗って1889年11月14日(ビスランドと同じ日[13])に東向きに出発した。彼女たちの旅行は熱心に報じられたが、ブライは人気があったニューヨーク・ワールドでセンセーショナルに取り上げられる支援を受けた一方、ビスランドは同紙ではほとんど無視されたことで、ビスランドおよび月刊誌に過ぎない上に上品な『コスモポリタン』よりも多くの注目を集めるようになった[12]

80日間の期限に挑んでいたブライは、12月25日に香港に到着するまで、ライバルの存在を知らなかった。その地でオクシデンタル&オリエンタル汽船会社の社員が、ビスランドが3日先に通ったのでブライは負けるだろうと告げた[14]

しかし最終的にブライはビスランドに打ち勝った。致命的だったのは、イングランドでビスランドは雑誌社が船会社に金品を贈って船の出発を遅らせたにもかかわらず、予定していたドイツの高速汽船「エムス号」に乗り遅れてサウサンプトンに取り残されたと言われ、おそらくはそれを信じた。彼女が故意に欺かれたのかどうかは不明である[15]

ビスランドは速度の遅い「ボスニア号」に乗ることを余儀なくされ、1月18日にアイルランドのクイーンズランド(現在のコーヴ)から出発したが、ブライは優位に立っていた[16][17][18][19][20]。 ブライはその間、特別仕立ての列車に乗ってアメリカ大陸を横断し、1890年1月25日15時51分に終着点のニュージャージー州に到着して、72日と6時間11分(雑誌『ワールド』が彼女の到着時間を当てるコンテストを実施したため、正確な時間が測定された)で世界一周旅行を達成した。ビスランドの船は1月30日までにニューヨークに到達しなかったが、結局76日半で旅行を完遂し、フォッグによる架空の記録は上回った[21]

ビスランドは『コスモポリタン』誌に旅行記を連載し、それは後に単行本『In Seven Stages: A Flying Trip Around The World』(1891年)として刊行された[22][23][24]。日本には2日間滞在し、芝の東照宮を見て感嘆し「我もアルカディアにありき」と記した[25]

その後の経歴と後半生

ビスランドの文章は、世界一周レースへの参加という題材から受ける印象よりも、ずっと文学的な範疇のものだった(ブライが旅行を綴った『72日間世界一周英語版』での、勢いが先走ったスタイルとは明確な対照をなしていた)。実際、1929年にニューヨーク・タイムズが掲載した死亡記事には旅行の言及すらなく[11]、「世界一周競争」後の彼女は執筆活動をよりまじめな題材に集中させた。

1906年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のアメリカでの公式伝記『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡(The Life and Letters of Lafcadio Hearn)』を刊行して好評を得る[26]。この本の収益は小泉家に贈呈した[27]。ビスランドは八雲没後に3度来日し、松江の小泉八雲旧居も訪れている。

ビスランドの最後の著書は『東方の三博士(Three Wise Men of the East)』(1930年)で、没後に刊行された[28]

ビスランドは法律家のチャールズ・ホイットマン・ウェットモアと1891年に結婚した[11][29]が、旧姓で著作の出版を続けた。夫妻はロングアイランドノースショア英語版に「アップルガース(Applegarth)」という名称で知られた夏の別荘を1892年に建てた[1][30][31]

ビスランドは1929年1月6日に肺炎のため、バージニア州シャーロッツビルの近くで亡くなり、奇しくも1922年に同じく肺炎で没したブライが眠るニューヨーク市ウッドローン墓地に葬られた[11][32]

著書

参考文献

  • Marks, Jason. Around the World in 72 Days: The race between Pulitzer's Nellie Bly and Cosmopolitan's Elizabeth Bisland Gemittarius Press、1993年(ISBN 978-0963369628
  • 工藤美代子『夢の途上 ラフカディオ・ハーンの生涯(アメリカ編)』武田ランダムハウスジャパン《ランダムハウス講談社文庫》、2008年

脚注

  1. ^ a b MacKay, Robert B. et al.(eds.)Long Island country houses and their architects, 1860 - 1940(1997)(ISBN 978-0393038569
  2. ^ Necrology, The Harvard Graduates Magazine, September 1919, p.185(listing death of death for Charles Wetmore)
  3. ^ Charles Whitman Wetmore, Harvard College, Class of 1875, Secretary's Report No. VII, p.99-100(1899)
  4. ^ Harrison, Mitchell C. Prominent and Progressive Americans, Vol. II, p.225-27(1904)(three page biography of Charles Whitman Wetmore, noting his law partnership with former Civil War General Francis C. Barlow and later position as president of North American Company)
  5. ^ “Thomas Sheilds Bisland Dead”. ニューヨーク・タイムズ. (1908年7月18日). http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F10B14FE395A17738DDDA10994DF405B888CF1D3 
  6. ^ a b c d e Verdery, Katherine. Elizabeth Bisland Wetmore, in Library of Southern Literature, p.57, 67-72(1910)
  7. ^ Bradshaw, Jim. Acadiana Diary: St. Mary journalist competed with Bly, The Daily Advertiser, April 2, 2006
  8. ^ Bradshaw, Jim. Elizabeth Bisland raced Nellie Bly around world, The Daily Advertiser, August 3, 2008
  9. ^ 「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) 年表」『日本の面影 ラフカディオ・ハーンの世界』《岩波現代文庫》(岩波書店)、2002年、p.365
  10. ^ Bright Women These: Sketches and Portraits of Some Daughters of the South, The Day, January 2, 1891
  11. ^ a b c d “MRS. E.B. WETMORE, AUTHOR, DIES IN SOUTH; Former Elizabeth Bisland of This City to Be Buried in Woodlawn Today”. ニューヨーク・タイムズ. (1929年1月9日). http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=FB091EFB3D5A167A93CBA9178AD85F4D8285F9&scp=2&sq=%22elizabeth+bisland%22&st=p 
  12. ^ a b Roggenkamp, Karen S.H. Dignified Sensationalism: Elizabeth Bisland, Cosmopolitan, and Trips Around the World, presented at "Writing the Journey: A Conference on American, British, & Anglophone Writers and Writing" University of Pennsylvania, June 10?13, 1999
  13. ^ NHK歴史秘話ヒストリア』「挑戦!80日間世界一周」「決着!80日間世界一周」(2016年11月4日・11日)
  14. ^ Bly, Nellie. Around the World in Seventy-Two Days, Ch.12(1890)
  15. ^ Abrams, Alan. Gold among the summer's dross, Toledo Blade, September 5, 1993
  16. ^ Round Went Nelly, Daily Argus News, January 25, 1890
  17. ^ Arrival of Elizabeth Bisland: Although Beaten by Neille Bly She Succeeds in Lowering Phiness Fogg's Record, シカゴ・トリビューン, January 31, 1890
  18. ^ ELIZABETH BISLAND AND NELLIE BLY: The Globe-Trotting Race Between the Two Rapidly Nearing Its End, シカゴ・トリビューン, January 18, 1890
  19. ^ Woman Against Woman: "Nellie Bly" and Miss Bisland go racing around the world, Aurora Daily Express, November 27, 1889
  20. ^ ALL AROUND THE WORLD.; MISS BISLAND NOW ON HER OCEAN VOYAGE TO NEW-YORK, ニューヨーク・タイムズ, January 19, 1890
  21. ^ Miss Bisland Arrives: Her Trip Around the World in 7612 days, ニューヨーク・タイムズ, January 31, 1890
  22. ^ Bandel, Betty. Nellie Bly's Rival(letter to editor), ニューヨーク・タイムズ, February 7, 1971
  23. ^ Marks, Jason. Around the World in 72 Days: The race between Pulitzer's Nellie Bly and Cosmopolitan's Elizabeth Bisland(Gemittarius Press 1993)(ISBN 978-0-9633696-2-8
  24. ^ Wong, Edlie L. Around the World and across the Board: Nellie Bly and the Geography of Games, in American literary geographies: spacial practice and cultural production, 1500 - 1900, pp.296 - 324(Bruckner, Martin & Hus, Hsuan L., eds.)(2007)(ISBN 9780874139808
  25. ^ 牧野陽子「松江のハーン(一) : 『盆踊り』と『神々の国の首都』」『成城大學經濟研究』第107巻、成城大学経済学会、1989年12月、89-119頁、ISSN 03874753CRID 1050282812450067712 
  26. ^ Huneker, James (1906年12月1日). “EXOTIC LAFCADIO HEARN; The Life and Letters of a Master of Nuance -- Elizabeth Bisland's Sympathetic Biography”. ニューヨーク・タイムズ. http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=FB0E14F63C5A12738DDDA80894DA415B868CF1D3 
  27. ^ 小泉節子 著『思ひ出の記』 小泉八雲記念館 監修(ハーベスト出版、2024年9月26日)
  28. ^ Feld, Rose C. (1931年5月3日). “Three Oriental Sages(book review)”. ニューヨーク・タイムズ. http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F70F14FF395C117A93C1A9178ED85F458385F9 (要約)
  29. ^ “Heard in the Smoking Room”. ニューヨーク・タイムズ. (1903年3月22日). http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=FA0614FC34591B728DDDAB0A94DB405B838CF1D3  (これによるとウェットモアはハーバード大学を1875年に卒業したと記されている。他の記録では1877年に法学士の資格を得たとある)
  30. ^ Aspinwall, J. Lawrence (1903年3月). “Applegarth: Residence of Chas B. Wetmore, Esq., Center Island, Oyster Bay, L.I.”. Architectural Record: pp. 279?291. https://books.google.co.jp/books?id=DNVAAAAAYAAJ&pg=PA27&redir_esc=y&hl=ja 
  31. ^ Bisland, Elizabeth (1910年10月). “The Building of Applegarth”. Country Life in America: pp. 657?660 
  32. ^ Elizabeth Bisland”. Nellie Bly in the Sky. 2015年11月29日閲覧。

関連項目

外部リンク


エリザベス・ビスランド

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日本の面影」の記事における「エリザベス・ビスランド」の解説

ニューオーリンズ新聞ハーン同僚務め女性記者新たな仕事求めてニューヨークへ旅立つハーン思いを寄せ、ビスランドもそれに気づいていたが、隻眼へのコンプレックスエキゾチズムへの関心からハーンはそれを伝えず見送りにも姿を見せなかった。

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