世界一周旅行
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1888年に、ブライはジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をモデルとして実際にリポーターを世界一周させるという企画を提案した。しかしこのときワールド紙は、女性の一人旅は危険だとしてブライの提案を認めず、代わりに男性記者を世界一周させる案を進めようとした。これに対してブライは、「男性を出発させたら、私は他の新聞社と契約して同じ日に出発し、その男を負かす」と言った。この時は結局企画自体が流れたが、それから約1年後の1889年、ブライの企画が採用され、ブライがそのリポーターに決定した。ワールド紙が企画を採用した背景には、当時部数が減少傾向にあり、注目されるイベントを起こす必要があったことが挙げられる。 ブライが企画の採用を告げられたのは1889年11月11日の午後で、出発は11月14日であった。3日間でブライは旅行用の服を用意し、支度を調えた。また、ブライはパスポートを持っていなかったため、ワールド社の社員が国務長官ジェームズ・G・ブレインに直接依頼し、出発までに仮パスポートを入手した。 1889年11月14日に、当時25歳の彼女はニューヨークを出発し、24,899マイルの旅に出た。まずはフェリーでニュージャージー州ホーボーケンへと向かい、ホーボーケンでイギリス行きのアウグスタ・ヴィクトリア号に乗った。母を含め15人ほどの見送りの中、船は9時40分に出発した。 この世界一周企画は出発した14日のワールド紙1面で大々的に報告された。同記事では、工程を記した地図とともに、ブライは史上最速となる75日で地球を一周すると書かれていた。この記事を読んだ雑誌コスモポリタンの編集者は刺激を受け、やはり女性記者のエリザベス・ビスランドをブライと同日に世界一周旅行(ブライの東回りに対し、ビスランドは西回り)に派遣した。こうしてブライとビスランドは競争する立場となったが、ブライ自身はこのことについて旅の間もしばらくは知らされなかった。 ブライは11月22日にイギリスのサウサンプトンに着いた。ここでブライは、ジュール・ヴェルヌ夫妻から、自宅への招待の手紙が来ていることを知り、予定を変更して会いに行くことにした。ブライは大急ぎでロンドンに行き、アメリカ公使館の二等書記官の自宅で正式なパスポートを発行してもらい、用事を済ませるとすぐにサウサンプトンに戻って、ヴェルヌ夫妻の住むフランスのアミアンへと向かった。そして22日の夜にヴェルヌ夫妻と対面した。ブライとヴェルヌはフランス、アメリカのこと、ヴェルヌの著書のこと、今回の旅行のことなどについて話し、ブライはヴェルヌの書斎を見せてもらった。ヴェルヌと会ったことはフランスをはじめとして世界中で話題となり、この旅行に一層の注目を集めることになった。 ヴェルヌと別れたブライは、カレーからインド郵便列車でイタリアのブリンディジに行き、11月25日にアウグスタ・ヴィクトリア号でスエズ運河を越え、セイロン島のコロンボに着いた。船の中では知り合いが増え、求婚されたりもした。一方、本国のアメリカでは12月1日からワールド紙でネリー・ブライ・レースが始まった。これは、ブライがニューヨークに着く日を秒単位で当てる企画で、新聞の日曜版についているクーポンに記入することで参加できる。1人何回でも応募できて、一等はファーストクラスでのヨーロッパ周遊旅行。この企画は応募が殺到し、ワールド紙の部数は前の週と比べて30万部増加した。 ブライはコロンボでカレーや人力車を初めて体験し、好感を持った。コロンボでは2日間過ごす予定だったが、次に乗る舟の出発が遅れたため、5日間滞在することとなった。当初の予定よりも遅れることになったブライは、目標である75日以内での世界一周が果たせなくなるのではと不安になり、苛立ちを見せるようになった。 12月13日、ブライはオリエンタル号に乗ってセイロン島を離れ、17日にシンガポールに着いた。シンガポールでは町に出かけて葬式を見物し、帰りに1匹のマカクザルを購入した。これは、この旅における数少ない大きな買い物で、後にマスコミではブライの旅のシンボルの1つとして扱われるようになった。 12月23日、オリエンタル号は香港に着いた。航海は順調で、コロンボでの遅れを取り戻していた。この場所でブライは、もう1人の女性(エリザベス・ビスランド)も世界一周に挑戦していることを初めて聞かされ、しかも、ビスランドはすでにここを出発しておりブライは負けることになるだろうと告げられた。香港では船の都合で5日間滞在し、その間に広州へと出かけたり、ヴィクトリア・ピークに登ったりした。そののちに日本に5日間滞在し、横浜、東京、鎌倉などを観光した。日本の印象はすこぶるよかったようで、帰国後に出版した旅行記の中で、日本のことを「愛と美と詩と清潔の国(the land of love-beauty-poetry-cleanliness)」と評し、見聞きしたことや人々にいかに魅了されたかを綴っている。 日本滞在後は、横浜から出発する蒸気船オセアニック号に乗りサンフランシスコを目指した。航海中は暴風雨に見舞われた。船上では、嵐の原因はブライの持ち込んだサルではないかという説が出たが、航海士の協力もあってサルは手放さずに済んだ。 船は1890年1月21日にサンフランシスコに着いた。しかしこのとき、アメリカ西部は大吹雪のため、ほとんどの列車が運行できない状態となっていた。ワールド社は仕方なく、サザン・パシフィック鉄道に対し、南部を走る臨時列車を出すよう依頼し、大金を支払うことで認められた。アメリカ本土に着いたブライは大歓迎を受けた。本土横断中も歓迎を受け続け、駅に着くたびに見物客が集まった。人々は歓声を上げ、フォスターの「ネリー・ブライ」が何度も演奏された。ブライは列車から帽子を振って応え、求められるとサインや握手にも応じた。 列車は特別ダイヤのため工事中の橋を通ることもあり、そのときは列車が落ちる危険性もあった。列車はシカゴを経由し、ユニオン駅で乗り換えた。1月25日にフィラデルフィアのブロード・ストリート駅(en:Broad Street Station (Philadelphia))に着き、ここでワールド紙の編集局長ジュリアス・チェインバーズと、ブライの母メアリー・ジェーン・コクランと再会した。2人はここからブライに同行した。15時51分44秒、ブライはジャージーシティで列車から降り、旅は終わった。降りた瞬間、計時係がストップウォッチを押して正確な時間を測定した。町には祝砲が鳴り響き、ブライの到着は、大歓声の中で迎えられた。 ブライが世界一周に要した時間は72日と6時間11分14秒だった。ビスランドは76日を要したためブライを上回ることはできなかった。ブライの旅行は地球一周の世界記録であったが、数か月後、62日で世界一周を成し遂げたジョージ・フランシス・トレイン(英語版)によってこの記録は破られた。
※この「世界一周旅行」の解説は、「ネリー・ブライ」の解説の一部です。
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「世界一周旅行」の例文・使い方・用例・文例
- 世界一周旅行
- ジェーンは世界一周旅行でもしようかとおもしろ半分に考えた
- ゆったりとしたスケジュールで世界一周旅行をする
- 大学卒業後はすぐに就職せずに世界一周旅行に行くつもりだ。
- 世界一周旅行をする
- 私の夢は世界一周旅行をすることです。
- 彼の願いは世界一周旅行をすることです。
- 私は世界一周旅行がしたい。
- 世界一周旅行にいくつもりです。
- 私は世界一周旅行に行くと決めた。
- 夢は、世界一周旅行。
- 彼女は世界一周旅行をしている。
- 彼女は昨年世界一周旅行をした。
- 彼女の夢は世界一周旅行をすることです。
- 彼は世界一周旅行をした。
- 私にもしそのお金があれば、世界一周旅行をするだろう。
- 私たちは世界一周旅行から今帰ってきたところです。
- 可能ならば私は世界一周旅行をしてみたい。
- もしそのお金があれば、世界一周旅行をするのだが。
- その老夫婦は世界一周旅行に出かけた。
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