世界一周旅行と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 08:57 UTC 版)
「フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン (1854-1888)」の記事における「世界一周旅行と死」の解説
1886年、フリードリヒ・ヴィルヘルムは3年かけて世界を周航する旅行に出発した。5人の随員しか従えず、「エッシュバッハ男爵(Baron von Eschbach)」の偽名を使ったお忍びの旅行であった。まず中東、次いでカリブ海域、中米・アメリカ合衆国、インド、中国、日本、オーストラリア、ニュージーランド、ジャワ島と旅した。フランスの蒸気船ヴォルガ号でバタヴィアからバンコクに移動していたとき、10月13日にシンガポールへ向かう途中で、フリードリヒ・ヴィルヘルムは船上から跡形もなく消えた。シンガポール駐在のドイツ領事はベルリンの外務省に電報を送った。領事はその中で、失踪者はおそらく甲板にいたときに「激しい神経衰弱の発作に襲われ、興奮状態となり」海に転落した、と推定した。バンコク行の目的は、招待状を送ってくれたシャム王チュラロンコンの賓客としてもてなしを受けるためだった。当時日本の宮中顧問官だったオットマール・フォン・モールは、滞日中のフリードリヒ・ヴィルヘルムの印象を「とてつもない誇大妄想を除けば、(自殺するほど)異常には見えなかった」と記している。 世界旅行中、従姉のウェールズ公妃アレクサンドラの娘ヴィクトリアを妻に望むようになったが、旅行中の遭難死のため婚約にも至らなかった。
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