世界一周計画発案までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/10 21:44 UTC 版)
「ルータン ボイジャー」の記事における「世界一周計画発案までの経緯」の解説
ディック・ルータンは元アメリカ空軍の士官であり、ベトナム戦争にも参加して数々の勲章を授与されたベテランパイロットであった。一方、その弟のバート・ルータンは1970年代当時バリ・イージーやクイッキー(en:Rutan Quickie)といった特徴的なホームビルト機 (en:homebuilt aircraft) を製作していた新進気鋭の航空技術者であった。二人は共同で航空機製造会社(スケールド・コンポジッツの前身)を営み、ディックはバートの製作した航空機のテストパイロットを務めていた。 1980年、カリフォルニア州・チノ (Chino) の航空ショーに参加していたディックとバートはそこでジーナ・イェーガーに出会った。イェーガーは製図士として働く女性で航空機や実験機に興味を持っており、20代半ばにはヘリコプターの免許を取得しているほどであった。その後イェーガーとディックは恋仲となり、イェーガーはディックの会社に誘われてテストパイロットとして働くこととなった。イェーガーはそこでロング・イージーの最高速度記録をマークしている。 1981年、無着陸・無給油での世界一周飛行をディックとイェーガーが発案し、それを達成可能な機体の設計依頼がバートに持ちかけられた。その当時、無給油での最長距離飛行記録はB-52によって1962年に成し遂げられた20,168 kmであり、またバートと共にクイッキーを製作した航空機製造会社 (en:Quickie Aircraft) が同時期に無着陸・無給油の世界一周飛行を計画していたものの実行されることはなかったため、このような挑戦は非常に野心的であった。バートは二人の提案に応じて機体を設計し、モデル76の型番を与えた。そしてイェーガーはその機体を"ボイジャー"(航海者の意)と名付けた。
※この「世界一周計画発案までの経緯」の解説は、「ルータン ボイジャー」の解説の一部です。
「世界一周計画発案までの経緯」を含む「ルータン ボイジャー」の記事については、「ルータン ボイジャー」の概要を参照ください。
- 世界一周計画発案までの経緯のページへのリンク