その後の経歴と後半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 09:32 UTC 版)
「エリザベス・ビスランド」の記事における「その後の経歴と後半生」の解説
ビスランドの文章は、世界一周レースへの参加という題材から受ける印象よりも、ずっと文学的な範疇のものだった(ブライが旅行を綴った『72日間世界一周(英語版)』での、勢いが先走ったスタイルとは明確な対照をなしていた)。実際、1929年にニューヨーク・タイムズが掲載した死亡記事には旅行の言及すらなく、「世界一周競争」後の彼女は執筆活動をよりまじめな題材に集中させた。1906年、彼女は『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡(The Life and Letters of Lafcadio Hearn)』を刊行して好評を得た。ビスランドの最後の著書は『東方の三博士(Three Wise Men of the East)』(1930年)で、没後に刊行された。 ビスランドは法律家のチャールズ・ホイットマン・ウェットモアと1891年に結婚したが、旧姓で著作の出版を続けた。夫妻はロングアイランドのノースショア(英語版)に「アップルガース(Applegarth)」という名称で知られた夏の別荘を1892年に建てた。 ビスランドは1929年1月6日に肺炎のため、バージニア州のシャーロッツビルの近くで亡くなり、奇しくも1922年に同じく肺炎で没したブライが眠るニューヨーク市のウッドローン墓地に葬られた。
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