その後の米英の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 14:08 UTC 版)
「太平洋集団安全保障構想」の記事における「その後の米英の評価」の解説
1949年7月8日には蔣介石とキリノ大統領はバギオで会談し、反共集団安全保障を訴え、韓国もこれに賛同した。しかし、アメリカ国務省は、蔣介石、李承晩、キリノ大統領いずれもそれぞれの内政不安定を解消するために外交的業績をつくるために提唱しているにすぎないと批判し、またアメリカ国務省極東局は蔣介石、李承晩、キリノによる連合は実現されたにしても脆弱で失敗に終わる可能性が高いと解釈した。また英連邦諸国も、メイベリー・デニング(Sir Mabely E.Dening)イギリス外相は「信頼を失った中国の総統、評判のあまりよくないフィリピン政治家、そして危なっかしい韓国の指導者という組み合わせを基盤にした太平洋条約構想など、ばかげたもの」として痛烈に批判した。フィリピン内部でもキリノ構想には批判が多かった。 1949年8月5日にはアメリカは中国白書を発表し、蔣介石への軍事援助を打ち切るとした。1949年8月6日には、蔣介石が訪韓し鎮海で李承晩と会談し、反共宣言を出した。
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