その後の紛争
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「サガダホク郡 (メイン州)」の記事における「その後の紛争」の解説
アメリカ独立戦争の間、サガダホク郡地域では重要な戦闘が無かったが、イギリス海軍から攻撃される恐れはあった。イギリスの武装船舶2隻がケネベック川を遡ってバスに向かったが、攻撃を受けて退却した。米英戦争のときは、近くでイギリス艦船ボクサーが捕獲されたことがあった。南北戦争のときは、郡から2,488人が北軍に従軍した。
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その後の紛争
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「ペン=カルバート境界紛争」の記事における「その後の紛争」の解説
ペン、カルバート両家の法廷での諍いは英国王が境界に関する合意書に署名して終結し、その数年後にはアメリカ合衆国独立により植民地の権利は失ってしまったが、境界と測量に関して合意できていない点はたくさん残っていた。1820年、デラウェアは米国政府にデラウェア川河口部の島であるピーパッチ島を売却したが、ニュージャージー州はデラウェアが勝手に売却する権利を持ってはいない、なぜならこの島は元々はニュージャージー側にあったものであるからだと主張した。陸軍長官ジョン・カルフーンは司法長官のウィリアム・ワートに法律的意見を要請し、ワートはジョージ・リードJRと前司法長官のシーザー・ロドニーに相談した。2人は植民地時代におけるペンとカルバートの長期にわたる論争の詳細をレポートし、デラウェア川の川面のうち12マイル円内にある部分はすべてデラウェアに帰属すべきである、したがって当該島はデラウェアの持ち物である、と結論した。その後この問題に関して2つの巡回裁判所が前述の2人のレポートとは異なる意見を述べたため、当時の大統領であるジェームズ・ポークは1847年に仲裁人を解決の任に当たらせるように提案した。仲裁人にはジョン・サージェントが指名された。独立記念館において米国政府、ニュージャージー州市民それぞれの代理人に植民地時代における権利関係の歴史について議論させ、サージェントはこれを聴取した。サージェントの結論はペン対ボルチモア裁判におけるハードウィックの決定から大きく異なるものではなかった。 1872年になってニュージャージーの複数の漁師がデラウェアに逮捕される事件が発生したことがきっかけとなり、ニュージャージーはデラウェア川の中央線まではニュージャージー州の領域であると宣言を行った。このデラウェア川の管轄権問題は米国連邦最高裁判所において「ニュージャージー対デラウェア事件」として何度かにわたり審理が行われた(1877年、1934年、2007年など)。1934年の裁判では、ベンジャミン・カルドーゾ判事により12マイル円の成り立ちやそれにまつわる境界論争が文書化された。このときの判決では英国大法官ハードウィックと仲裁人サージェントの意見が引用された。
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その後の紛争
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「アラブ・ハザール戦争」の記事における「その後の紛争」の解説
ハザールはアッバース朝の成立後にイスラーム教徒の支配する領域への襲撃を再開し、襲撃は南コーカサスの奥深くにまで達した。しかし、9世紀までにハザールはほぼデルベントの門にまで至るダゲスタンの支配を回復したものの、コーカサス南部のイスラーム教徒の支配地に対して真剣な挑戦を試みることは決してなかった。トーマス・シャウブ・ヌーナンが記しているように、「ハザールとアラブの戦争は膠着したまま終焉を迎えた」。 ハザールとアッバース朝の最初の紛争は、カリフのマンスール(在位:754年 - 775年)が進めた外交政策の結果によるものであった。マンスールはアッバース朝とハザールの関係の強化を試み、760年頃にアルメニアの総督のヤズィード・アッ=スラミー(英語版)にカガンのバガトゥルの娘と結婚するように命じた。結婚は華やかな祝宴の中で行われたものの、カガンの娘は2年後の出産で幼児とともに死亡した。カガンはイスラーム教徒が娘を毒殺したのではないかと疑い、762年から764年にかけてコーカサス南部への破壊的な襲撃に乗り出した。ホラズム出身のラス(英語版)という名のタルカンの指揮の下で、ハザール軍はアルバニアとアルメニア、そしてイベリアを徹底的に荒らし回り、ティフリスを占領した。ヤズィード自身は逃亡に成功したものの、ハザール軍は何千人もの捕虜と多くの戦利品を伴って北へ戻った。しかしながら、十数年後の780年にイベリアの君主の地位を追われたネルセ(英語版)が自らを復位させ、アッバース朝に対する軍事行動を起こすようにハザールで説得を試みた際にはカガンは要求を拒否している。これはおそらく、クリミア半島をめぐるビザンツ帝国との対立に起因するハザールの外交政策における短期的な反ビザンツ指向の結果であったと考えられている。同じ時期に、ハザールはビザンツ帝国の支配に対するアブハジア公レオン2世(英語版)の独立を支援した。 その後はアラブとハザールの間でしばらく平和が維持されていたものの、799年に南コーカサスへの最後の大規模なハザールの侵攻が発生した。年代記作家たちは、この侵攻は再び起こった婚姻政策の失敗の結果であると考察している。ジョージアの史料によれば、カヘティ公アルチル(英語版)(在位:736年 - 786年)の美しい娘であるシュシャンとの結婚をハザールのカガンが切望し、イベリアへ侵攻してシュシャンを捕えるために将軍のブルジャンを派遣した。カルトリ(英語版)地方の中心部の大半が占領され、カヘティ公ジュアンシェル2世(英語版)(在位:786年 - 807年)は捕えられて数年にわたり拘束された。しかし、シュシャンは捕えられるよりは死を選んで自殺し、激怒したカガンは失態を犯したブルジャンを処刑した。一方、アラブの年代記作家は、アッバース朝の総督のアル=ファドル・ブン・ヤフヤー(英語版)(アッバース朝で権勢を振るったバルマク家(英語版)の一人)がカガンの娘の一人との結婚を計画したものの、その娘が南方へ向かう途上で死亡したことが原因であるとしている。また、タバリーはこれとは異なる話として、デルベントを統治していた将軍のサイード・ブン・サルムに父親を処刑された地元のアラブ人の有力者が、報復のためにハザールを攻撃に誘ったと説明している。アラブの史料によれば、ハザールの襲撃はアラス川にまで達した。そして、新しくアルメニアの総督(オスティカン(英語版))に任じられたヤズィード・ブン・マズヤド(英語版)は、予備軍として派遣されたフザイマ・ブン・ハーズィム(英語版)の部隊とともに派兵することを余儀なくされた。 アラブとハザールは9世紀から10世紀にかけて北コーカサスで散発的な衝突を続けたものの、衝突は局地的なものであり、8世紀の大規模な戦争と比べればはるかに静かなものであった。そのような状況の例として、オスマン帝国の歴史家のムネッジム・バシュ(英語版)は、901年頃から912年まで続いたアラブとハザールの戦争について記録しているものの、一方ではほぼ同時期に、アラブとの戦争の動きともおそらく関連していたとみられているルーシ族のカスピ海への襲撃(英語版)が発生していた(ハザールはルーシ族に対して妨害することなく自身の土地を通過することを認めていた)。実際にハザールにとって南方の国境の安定は、草原地帯においてハザールの覇権に挑戦する新たな脅威が出現したためにより重要な問題となっていた。10世紀にハザールの覇権は漸進的な支配力の衰えとともに後退し、ルーシ族やオグズのような他のテュルク系遊牧民によって打倒された。ハザールの領土はヴォルガ川下流域周辺の中核地帯にまで縮小し、コーカサスにおけるアラブのイスラーム系諸勢力の勢力範囲から排除された。このため、1030年のギャンジャのシャッダード朝と「ハザール」の戦争に関するイブン・アル=アスィールによる記述は、おそらくハザール人ではなくジョージア人について言及している。そして最後に末期のハザール人はかつての敵の中に避難場所を見つけた。ムネッジム・バシュは、1064年に「3,000世帯からなるハザール人の残余者の一団がハザールの地から(ダゲスタンの不明の場所である)カタン(Qahtan)にたどり着いた。彼らはその地を再建し、そこに住み着いた。」と記録している。
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