その後の系譜の謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 01:43 UTC 版)
14世紀中頃(1337年)の合戦により、庄氏の菩提寺である宥荘寺(後に宥勝寺として再建)が焼失した事もあって、本庄氏の系譜(特に時家から信明まで)は、はっきりとしないのが現状である。しかし、時家の曾孫として本庄左衛門太郎国房の名は、文書でも確認できる(この文書によると、時家は筑前国小中庄の地頭職を与えられていたとされる)。 複数ある系図の一つには、「家長の子(三男)、本庄三左衛門時家」の名で載っており、この系図によると、その子の名は七左衛門家房と言い、その子を太左衛門泰房と言い、その子を太郎国房と言う。資料としての信憑性については確かな系図ではない為(特に通称は信用できないので)、断定する事はできないが、この系図に従うと、本庄時家→本庄家房→本庄泰房→本庄国房となる。『武蔵七党系図』によれば、家房は左衛門尉、泰房は太郎左衛門尉とある。 分かっている事は、南北朝時代(14世紀中頃から末)、児玉党は南朝方に味方しているので、党本宗家となった本庄氏も南朝に組みだてしていたものと見られる。その後、児玉党は15世紀初めの時点で犬懸上杉家に味方し、15世紀中頃になると山内上杉家の家臣(家人)となり、代々従えたと言う事である。 系図には、時家のもう一人の末流として、忍城主成田氏の家臣、本庄越前守長英の名がある。複数系図が存在する為、時家から長英までの系譜の流れを断定する事はできない。
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