その後の龍門庄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/23 15:48 UTC 版)
龍門寺が衰退したのちも龍門庄を巡る争いは続いている。永正7年(1510年)には興福寺と東大寺との間で龍門庄を巡り争いが起こった。この時は、越智正忠の仲介に入り和解している。大永2年(1522年)には、龍門庄民が団結して多武峰への年貢を勝手に納めなかったり半減し命令にも従わず、ついには罪人を成敗しようと入ってきた多武峰の使者を殺害する暴動が起こっている。この時、多武峰は衆徒を動員して、庄民の住宅を焼き、庄民を追い払おうとしたが、本善寺と越智氏が仲介して、破却をまぬがれた。その後、大和国は筒井順慶によって統一されるが、本能寺の変のあとに筒井氏は伊賀国へ国替えとなり、大和国は豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が支配することとなる。文禄4年(1595年)の太閤検地により龍門庄は寺領庄園としての性格を解かれ、興福寺・多武峰その他の幾重にも重なった支配体制は解体され、龍門庄に含まれた村々は村単位で大名の領地となった。
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