スコットランド侵攻
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「エドワード1世 (イングランド王)」の記事における「スコットランド侵攻」の解説
スコットランド国王ジョン・ベイリャルは即位以来エドワードに臣従を誓っていたが、それに対するスコットランド内の反発は高まっていた。特に1294年に対仏開戦でエドワードがスコットランドに徴兵要求をしたことでスコットランド人の反英感情は爆発した。後にエドワード1世はこの徴兵要求を取り消しているが、反英感情が収まることはなかった。 こうした空気の中、ジョン・ベイリャルはイングランド王への臣従を取り消した。1295年7月には司教や貴族から成る反英諮問機関「スコットランド王国の共同体」が創設されて、今後この組織が国政の責任を負うことになった。さらに1295年10月にはスコットランドとフランスの攻守同盟がパリで締結された。 これに対してエドワード1世は1296年3月にもスコットランド侵攻を開始し、4月にはダンバーの戦い(英語版)でスコットランド軍を撃破して多数のスコットランド貴族を捕虜にした。ジョン・ベイリャルも7月には投降し、イングランド王への「反逆」を犯したことを「告白」させられた。そしてフランスとの同盟を破棄し、王位を空席にして王権はエドワード1世に譲ることを認めさせられた。エドワード1世はスコットランド王権を示す王冠や王笏、スクーンの石などをロンドンへ持ち帰らせた。
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スコットランド侵攻
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「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「スコットランド侵攻」の解説
エドワード3世は、祖父王エドワード1世時代に一時的に成功するも父王エドワード2世の代に破綻していたスコットランド侵攻の機会を狙っていた。 1332年8月に旧スコットランド王ジョン・ベイリャルの子であるエドワード・ベイリャルがスコットランド内不満分子を糾合し、スコットランド王デイヴィッド2世に対して反乱を開始し、ダプリン・ムーアの戦い(英語版)に勝利してスコットランド王即位を宣言した。スコットランド支配を狙うエドワード3世はエドワード・ベイリャルの即位を支持して支援を与えていた。 しかしエドワード・ベイリャルはエドワード3世に臣下の礼を取ったため、スコットランドの誇りを傷つけ、スコットランド国内から激しく拒絶された。そのため一時イングランドへ逃げ戻るしかなかった。 翌1333年にベイリャル・イングランド連合軍は再度ハリドン・ヒルの戦い(英語版)でデイヴィッド2世軍を撃破した。ベイリャルは1334年2月にエディンバラに召集したスコットランド議会においてエドワード3世を「スコットランド最高の主」と認定し、べリックのイングランドへの割譲を決定した。さらに6月にはハディントン(英語版)からダンフリーズにかけての南部スコットランドもイングランドに割譲した。スコットランドにとってこの代償は大きく、スコットランドがこれらの地域を取り戻すのには100年の戦いを要することになる。 デイヴィッド2世は1334年5月にフランスへ亡命した。スコットランドは風前の灯火となったが、イングランド傀儡王のエドワード・ベイリャルは相変わらずスコットランド内の人望を全く集められず、特にエドワード3世がフランス王位を要求して1338年から大陸に出兵してグレートブリテン島に不在となるとスコットランド各地でイングランド軍が押し戻されるようになり、エドワード・ベイリャルも再びイングランドへ逃げ戻るしかなくなった。デイヴィッド2世の摂政ロバート・ステュアート(後のロバート2世)がスコットランド内の実権を取り戻し、さらに1341年秋にはデイヴィッド2世がフランスから帰還してイングランドに対して攻勢に転じるようになる。
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