サマセット公支配時代
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「ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)」の記事における「サマセット公支配時代」の解説
1547年1月にヘンリー8世が崩御し、幼王エドワード6世が即位した。ライル子爵はヘンリー8世の遺言において幼王エドワード6世に代わって統治を行う16人の枢密顧問官の一人に指名されていた。ヘンリー8世としては集団指導体制にすることで特定の人物が息子をないがしろにすることを避けようと企図したのだが、結局この遺言は守られず、エドワード6世の伯父にあたるハートフォード伯(サマセット公に叙爵)が摂政に就任して国政を牛耳った。 1547年2月16日にはウォリック伯に叙せられた。同年9月にサマセット公によるスコットランド侵攻作戦のピンキーの戦い(英語版)に参加した。1548年から1550年にかけてはウェールズ辺境地域評議会議長(英語版)に就任した。1549年から1550年にかけては海軍卿に再任した。 1549年7月にはイングランド東部で共有地の囲い込みに反発する農民の反乱「ケットの反乱(英語版)」が発生した。サマセット公はこれまで農民の苦境に理解を示すことで国民人気を得ていたので、この反乱にも一定の理解を示して鎮圧を逡巡した。その間にウォリック伯は傭兵部隊を率いて出陣し、容赦なくこの反乱を鎮圧してロバート・ケットはじめ反乱指導者を処刑した。これによってウィリック伯は枢密院における立場を固めた。 権力を拡大させるウォリック伯はサマセット公を排除して自らが国政を牛耳ることを狙うようになり、枢密院でサマセット公のケットの反乱をめぐる責任を追及した。そして1549年10月にサマセット公を逮捕(一時釈放されるも1551年に再逮捕され、1552年1月に処刑)させた。
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