スコットランド出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 16:53 UTC 版)
「ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)」の記事における「スコットランド出兵」の解説
セシルは1559年よりスコットランド情勢に注目しており、スコットランド摂政メアリ・オブ・ギーズに対するスコットランド国民の反乱を煽る工作活動に努めてきた。 セシルの強い進言を受けたエリザベスは1559年末から1560年にかけてスコットランドの反乱を支援する出兵を行った。途中撤兵を考えたエリザベスをセシルは辞職をちらつかせてでも翻意させて出兵を強行させた。その結果、エディンバラ・リース(英語版)要塞のフランス軍を大敗させることに成功した。1560年6月にはセシル自らエディンバラへ向かい、和平交渉に当たり、エディンバラ条約(英語版)を締結した。これによりフランス軍のスコットランドからの撤兵、リース要塞の解放、スコットランド女王メアリーがイングランド女王を名乗らないことなどが取り決められた。さらに8月にはスコットランド議会が国教をカトリックからプロテスタントに変える決議を出した。 1561年には後見裁判所(英語版)長官を兼務し、死去まで同職に在職し続けた。これは人事権を掌握する重要なポストであり、当時の最高ポストであった大蔵卿(英語版)の前階梯の地位と看做されていた。 女王の寵臣ロバート・ダドリー(1564年にレスター伯に叙される)の推進で1562年からその翌年にかけて実施されたユグノー援助のフランス出兵には強く反対した。結局この出兵は失敗したため、セシルのレスター伯に対する優位が確立された。しかしレスター伯はその後も女王の寵愛を受け続けたため、宮廷内でセシルと権勢を二分する派閥の領袖であり続けた。
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