スコットランド国境防衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 00:35 UTC 版)
「リチャード・ネヴィル (第5代ソールズベリー伯)」の記事における「スコットランド国境防衛」の解説
当時スコットランドとの国境は、ノーサンバーランドのベリックに本拠地を置く東部国境と、カンブリアのカーライルに本拠地を置く西部国境の、2人の警備責任者によって守られていた。14世紀まではこの両方がパーシー家から任命されていた。 ヘンリー4世の即位を支援していたパーシー家は、1399年のヘンリー4世の即位に伴って、西部国境はノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーに、東部国境はその息子のヘンリー・パーシー(ホットスパー)がそれぞれ警備責任者になった。しかし後にホットスパーは反乱を起こして1403年に戦死、父も反逆罪の共謀として捕らえられた。その逮捕を国王に命じられたのがリチャードの父ラルフ・ネヴィルであり、その褒美としてパーシー家の後任として東西両方の国境警備責任者の職を与えられた(ノーサンバランド伯は後に再び反乱を起こし、1408年に戦死)。 ヘンリー5世の即位に伴って、ノーサンバランド伯の孫でホットスパーの遺児・ヘンリー・パーシーが復帰、リチャードの姉エレノアと結婚した。パーシー家は所領を回復し、1417年に東部国境だけはパーシー家の担当に戻されるが、西部国境はネヴィル家世襲の官職となった。 1420年、リチャードは父の後任としてスコットランド西部国境警備責任者に任命された。この役職は当時のイングランドでは平時で1500ポンド、いざスコットランドと戦争になった場合にはその4倍の予算が支給される、極めて金になる官職であった。スコットランド国境の防備に関しては、対フランス戦線のカレーと違って部隊の常駐義務はなかったが、絶え間ない襲撃と小競り合いに対処するうちに、よく訓練された精兵が揃うことになった。リチャードがカンバーランド、ウェストモーランド、ダラムで治安判事に任命されたところを見ると、ヘンリー5世の信任も厚かったのだろう。 ヘンリー5世没後の1431年、ヘンリー6世がフランス王としての戴冠式を行うためフランスに赴いた時には、その一行に同行し、帰国するとさらに東部国境警備責任者にも任命された。 しかし1436年、リチャードはあっさり東西両方の国境警備責任者を辞職してしまう。恐らくヘンリー6世からの予算支払いの滞りにプレッシャーをかける目的だったと考えられる。辞職が了承されると、彼は自前の歩兵・弓兵からなる1300人の兵士を連れて、フランス遠征に向かう義弟のヨーク公リチャードに同行した。翌1437年に帰国し、11月には枢密院のメンバーとなった。 この後しばらくは、前述のネヴィル家内の遺産騒動に注力してスコットランド国境警備からは離れていたが、1443年にお家騒動が収まると、西部国境警備責任者に復帰した。この時の予算は1000ポンド以下に減少したが、不渡りになる可能性のある手形払いではなく、国庫の特別枠として現金予算を確保した。ここでリチャードが手形ではなく予算枠にこだわったのは、1436年の遅滞に懲りたからかも知れない。
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