フランス遠征
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競走後、陣営はギャロップダイナのフランス遠征を発表。目標レースは1600メートルではフランス最高峰のジャック・ル・マロワ賞とムーラン・ド・ロンシャン賞に据えられた。3月にはシンボリルドルフがアメリカのサンルイレイステークスで大敗を喫し、日本競馬界の国外遠征への意欲に冷水が浴びせられた状況にあったが、それを押しての遠征であった。 社台ファーム千歳場長(当時)・吉田照哉と同場の従業員である袴田二三男(後に山元トレーニングセンター・マネージャー)を伴い渡仏したギャロップダイナは、6月11日、受入先であるシャンティイ調教場のジョン・カニントン厩舎に入る。同厩舎では、吉田善哉のかつての所有馬で、日本で種牡馬となったリアルシャダイが入っていた馬房に収められた。のちに柴崎も渡仏し、現地での調教に当たった。 8月17日、フランス第1戦のジャック・ル・マロワ賞に臨んだ。「安田記念とは比較にならない」(柴崎)という好調で、鞍上には現地騎手のモーリス・フィリペロンを配されたギャロップダイナは、13頭立て4番人気の支持を受けた。レースでフィリペロンは先行策をとったがやがて失速し、勝ったリルンクから大きく離された12着に終わる。競走後、吉田善哉は「ヨーロッパのG1を勝つのがどんなことか判っているつもりだけどね」と述べ、唸り声を漏らした。また矢野は「引っ掛かった」「直線だけのレースはきつい」と感想を述べた。 9月7日にはムーラン・ド・ロンシャン賞に出走。騎手は8月8日にクラフォンテーヌ競馬場で勝利を挙げていた柴崎が務めた。スタートが切られると先行集団のなかでレースを進めたが、最後の直線で伸びず、12頭立て10着という結果に終わった。ギャロップダイナはこれをもってフランス遠征を終え、9月17日に帰国した。
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フランス遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 23:29 UTC 版)
競走後、改めてシーキングザパールのフランス遠征が発表され、ドーヴィル競馬場で行われる距離1300メートルのG1競走モーリス・ド・ギース賞への出走が明言された。格付けはG1ながら同競走は当時日本での知名度が低く、武は著書で「森先生はよくこんなレースを見つけ出したものだと感心します。日本人はよく名の知られたビッグレースを狙うのがふつうでしたから」とその決定を称えている。森は前年にこの競走の存在を知り、ドージマムテキを出走させようとして頓挫して経緯があり、その経験を踏まえたものであった。また森は当初1600メートル戦のジャック・ル・マロワ賞への出走を企図していたが、イギリスのサセックスステークスへの出走を予定していたタイキシャトルが、コース適性を理由としてジャック・ル・マロワ賞に目標を切り替えたため「1600メートルではタイキシャトルに勝てない」と判断しての決定でもあった。「それなら格は下でも1週早いモーリス・ド・ギース賞を狙って、日本で最初に海外のGIを勝つ調教師になってやろうと思った」ともいう。 7月21日に調教を行う予定のイギリスへ出発。翌22日に受け入れ先であるニューマーケットのジェフ・ラグ(Geoff Wragg)厩舎に到着し、以後調教が積まれていった。森がニューマーケットでの調教を選んだ理由は、日本で専ら使用しているウッドチップの坂路コースに近い「サイドヒル」というウッドチップコースが備えられていたことにあった。森は「輸送を考えるとフランスのシャンティーでやった方がいい。けど、あそこのダートコースで仕上げる自信はなかった。タイキシャトルやエルコンドルパサーぐらい能力が高い馬なら、どこで調教したって勝てるやろ。パールはそうはいかん。日本でも余裕で勝てる馬やない。(中略)これ以上ないってくらい仕上げんと勝負にならんと思った」と述べており、またシャンティーを滞在先に選ばなかった理由については、以前に森がシャンティーに滞在した際に乾燥している地域だと感じたため、「喉の手術を行ったシーキングザパールにシャンティーの気候は合わない」と判断したと述べている。8月5日には日本から武が駆けつけて最終調教を行い、3ハロン(約600メートル)を推定35秒5という好タイムを計時し好調を窺わせた。 翌6日、シーキングザパールは馬運車に積まれた後ドーバー海峡をフェリーで渡ってドーヴィル競馬場に入った。森は現地に到着した当初は飛行機で移動するのが当然だと思っていたが、そこでどのような手続きをすればよいのか現地の関係者に聞いたところ「君の馬はVIPか?」と言われ、詳しく聞くと片道8時間程度だと教えられた森は「その程度なら栗東から福島に遠征するよりも短い」と感じたため、飛行機よりも格安の運賃での移動が可能となるフェリーで移動したという。 8月9日にモーリス・ド・ギース賞を迎えた。フランスは雨が多い時期に当たり森は馬場状態を懸念していたが、当年は雨が降らず、数十年ぶりといわれる硬い馬場での競走となった。シーキングザパールはオッズ10.4倍の5番人気であった。スタートが切られると、スローペースで押し出されるような形で先頭に立ち、そのままレースを先導。武は無理にシーキングザパールを外ラチ寄りに誘導せずにコースの真ん中を走らせ、残り300m地点からスパートを掛けると追走するジムアンドトニックらを振り切り、コースレコードを17年ぶりに更新する1分14秒70で逃げ切り勝ちを収めた。 この勝利は日本競馬界の悲願とされていた初の欧州G1競走制覇であり、地元紙『パリチュルフ』は「ロケット弾、その名はシーキングザパール」との見出しで、この勝利を1面で伝えた。またイギリスの『レーシング・ポスト』も「日本の牝馬、歴史を作る」の見出しと共に、1面から3面までを割いて大きく取り上げ、関係者の紹介や、1958年から1959年にアメリカへ遠征したハクチカラ以降の日本馬の海外遠征史も合わせて取り上げた。手綱を取った武はフランス調教馬スキーパラダイスで勝ったムーラン・ド・ロンシャン賞に次ぐ欧州G1競走2勝目であったが、「スキーパラダイスの時とは違う嬉しさがありますね。日本の馬で日本のチームで勝てたんですから。これは僕ひとりの勝利ではなく長年やってやっと勝てたんですから。日本のホースマンにとって今日の勝利はすごく大きいと思います」と語った。武によるとシーキングザパールはニューマーケットでの追い切り時から具合が良く、「日本にいるときより落ち着いていたくらい」だったという。森は勝因について「ジョッキーかな。予想外の展開だったけど、このコースをよく知ってる彼のあの乗り方が結果的に見ればベストだった。もちろん涼しいニューマーケットでの調教がうまくいったこと、馬場が軽くてシーキングザパールに向いていたことなども勝因にあげられる。負担重量や距離を考えてこのレースを狙った甲斐があったと思う」と述べた。なお、シーキングザパールのレコードタイムは2013年にムーンライトクラウドに破られるまで15年間にわたり保持された。 翌週のジャック・ル・マロワ賞では圧倒的1番人気に推されたタイキシャトルも優勝、2週連続での日本調教馬による快挙はフランスを驚かせ、当地のマスコミでは「日本馬がノルマンディーに歴史的な上陸を果たした」といわれた。これらの勝利に対し、日本中央競馬会(JRA)からはシーキングザパール陣営に対し約9200万円、タイキシャトル陣営に対し約1億6800万円の褒賞金が出された。 その後帰国したタイキシャトルに対し、シーキングザパールはニューマーケットに戻って調教を続け、9月6日には再度フランスへ渡り2戦目のムーラン・ド・ロンシャン賞に臨んだ。しかしアイリッシュ2000ギニーを制したデザートプリンスやプール・デッセ・デ・プーリッシュ(フランス1000ギニー)の優勝馬ザライーカなど出走馬は前走よりも強化され、他陣営のペースメーカーに絡まれながら逃げる展開や、降雨による不良馬場などもあって7頭立ての5着に終わった。武は「展開だけでなく、馬場、相手すべてが前走よりきつかった」と語った。
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フランス遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:19 UTC 版)
7月15日、フォワ賞をステップレースとするプランが発表され、凱旋門賞挑戦が正式に表明された。また、鞍上がこれまで出走した全レースでパートナーを務めた池添から凱旋門賞に優勝経験のあるクリストフ・スミヨンに乗り替わることも併せて発表された。これについて、池江は「苦渋の選択だった」と述べた。一方池添はこのときの心境を、「いつもだったら絶対潰れてるくらいの量の酒を飲んでも全然酔えないくらい、本当にショックだった」と語っている。 8月25日午前8時18分、オルフェーヴルは帯同馬である同じ池江泰寿厩舎のアヴェンティーノと共に成田国際空港から出発。韓国の仁川国際空港を経由して現地時間(以下同)8月25日午後5時47分にフランスのシャルル・ド・ゴール国際空港に到着し、その後、現地で調教師として開業している小林智厩舎に入厩した。8月26日に曳き運動を行い、8月27日からは調教を開始。9月3日にはスミヨンが騎乗して感触を確かめ、9月5日にはフォワ賞に向けた1週間前追い切りが行われた。 9月16日のフォワ賞は、5頭と少頭数での競馬となった。レースではペースメーカーとして出走したアヴェンティーノが逃げる展開を最後方で待機。超スローペースとなったことで道中で行きたがる素振りも見せたが、スミヨンが抑え込む。最後の直線ではアヴェンティーノが開けた最内を追い上げ、G1を3勝しているミアンドルらを突き放し優勝した。この結果について、スミヨンは「前哨戦として、本番に繋がる良いレースが出来ました」「本番に向けて、余力を残すようなレースができました」とコメントした。池江は「勝たせてもらいましたが、世界の壁の高さを感じました」と述べ、後には「もっと楽に勝てると思っていた。2着馬(ミアンドル)は次走を見据えて仕上げていなかったし、その馬を引き離せなかったのはショック」と語っている。前半に折り合いに苦労した点については、池江は「(スミヨンが)調教でスムーズに折り合ったので、コントロールし易いと言っていましたが、必ずしもそうではないところを身をもって感じてもらえたと思います」「馬だけでなく騎手にとっても、本番に向けてよい経験になったと思います」と語っている。そして、池江、スミヨンとも、凱旋門賞には「さらに良い状態での出走」を望むコメントを残している。この勝利を受け、イギリスの大手ブックメーカーの中にはオルフェーヴルに対する凱旋門賞における前売りオッズを、前年の覇者であり当年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスにも優勝したデインドリームと並ぶ1番人気に支持するところも現れた。 10月7日の第91回凱旋門賞は、18頭での競走となった。本番が近づくにつれて有力馬の回避が相次ぎ、2010年と2011年のエリザベス女王杯を連覇し、当年のアイリッシュチャンピオンステークスにも優勝していたスノーフェアリーが故障により出走を回避することが9月29日に明らかになった。また、10月1日には、前述のデインドリームが調整を進めていたドイツのケルン競馬場において馬伝染性貧血が発生し、デインドリーム自身に感染は見られなかったが移動禁止の措置が取られたために凱旋門賞への出走断念を余儀なくされた。さらに、10月2日には、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスにおいて前年は優勝、当年はハナ差の2着という成績を残していたナサニエルも熱発により回避することとなった。一方で、当年の英愛ダービー馬のキャメロットは、ランフランコ・デットーリが騎乗して参戦することとなった。さらに、当年のジョッケクルブ賞(フランスダービー)の優勝馬サオノワやアイリッシュオークス馬のグレートヘヴンズ、前年の凱旋門賞2着のシャレータも参戦した。 迎えた本番。横一線のスタートから、マスターストロークが逃げ、ロビンフッドが2番手を追走する。大外枠からスタートしたオルフェーヴルは、そのまま馬群の外側を進み、後方から2番手からレースを進める。道中ではアヴェンティーノに騎乗しているアントニー・クラストゥスが何度か後ろを振り返ってオルフェーヴルを探し、オルフェーヴルが落ち着いて走れるようにとアヴェンティーノを近づけていく。第3コーナーを通過する頃には、後方2番手は変わらないが馬群がやや縦長になっており内から2、3頭目を進む。そして最後の直線では大外から馬なりのままポジションを上げ、追い出されると残り約300メートルで勢いよく先頭に立ち、さらに後続を突き放した。しかしその後、内ラチに向かって急激に斜行して失速。スミヨンが内から鞭を打って立て直しを試みるも、盛り返してきたソレミアにゴール直前で差され、2着に終わった。 テレビ中継の中で行われたレース直後のインタビューで、池江は「日本の競走馬が世界のトップレベルにあることは事実だが、自分の技術が世界レベルになかった」「明日から出直して、何とかこのレースに勝つ為にまた戻ってきたい」と述べた。レース展開については、「後方で折り合いをつけるというのは予定通りだったが、早めに抜け出して目標にされた分、交わされた」と述べている。最後に斜行したことについて、スミヨンは「直線に向いてから追い出しての反応は良かったが、内にもたれてしまった。途中で右ムチに持ち替えたもののさらに内ラチに寄って行った。抜け出してから少しソラを使うような所があったかもしれない」とコメントしている。また池江は馬の怪我や騎手の落馬を恐れて専ら幅の狭いコースで調教を行っており、広い調教場での追い切りをしなかったためにヨレる面をスミヨンに体感させておけなかった事を競走後に後悔として述べている。 オルフェーヴルとアヴェンティーノは10月10日午前8時56分(日本時間、以下同)、成田国際空港に帰国した。
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フランス遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:19 UTC 版)
8月15日に放牧先のノーザンファームしがらきから帰厩、調整を進め8月21日に国内での最終追い切りを行った。そして8月24日に成田国際空港を出発し、現地時間(以下同)8月24日にフランスのシャルル・ド・ゴール国際空港に到着、その夜に前年と同じ小林智厩舎に入厩した。本年は、ブラーニーストーンが帯同馬として同行した。追い切りの予定日にブラーニーストーンに蹴られて外傷性鼻出血を発症し追い切りが3日間延期されるアクシデントもあったが、概ね順調に調教され、池江も「前哨戦前の現時点での状態は昨年よりいい」とのコメントを残している。前年のフォワ賞やジャパンカップでは、先頭に立っても他馬を恋しがって待ったり寄っていったりする傾向が見られたことから、当年はブラーニーストーンの前を歩かせ自立心の強化にも努めた。 9月15日のフォワ賞では、前年の英二冠馬であるキャメロットが悪化した馬場を理由に出走を取り消し、9頭での競走となった。レースでは、日本調教馬・キズナの帯同馬であるステラウインド(武豊騎乗)が超スローペースで逃げ、最内枠からスタートしたオルフェーヴルは内ラチ沿いの2、3番手を追走する。直線に向いてステラウインドの外に出すと一気に先頭に立ち、最後はスミヨンが手綱を抑えて後ろを振り返る余裕を見せながら後続を3馬身突き放す圧勝を飾った。 道中は折り合って進み、直線では真っ直ぐ走り後続を突き放した走りに対して、池江は「求めていた走りがようやくできた」と喜びを表し、またスミヨンは「馬が大人に、クールになっていた」と気性面での成長について言及した。 10月6日の第92回凱旋門賞には、最終的に18頭が登録を行った。この年は3歳馬に実績馬が多く、東京優駿優勝馬でニエル賞にも勝ったキズナの他、イギリスダービー馬のルーラーオブザワールド、ジョッケクルブ賞(フランスダービー)馬のアンテロ、ディアヌ賞(フランスオークス)とヴェルメイユ賞を連勝したトレヴ、パリ大賞に勝ったフリントシャー、イギリスセントレジャーの勝ち馬リーディングライトなどが出走した。一方、古馬では、前述のキャメロット、アイリッシュチャンピオンステークスに優勝していたザフューグが枠順が発表される前に登録を取り消した。また、同年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスをレコードタイムで圧勝し、バーデン大賞にも勝っていたノヴェリストは、発走前日に熱発のために出走を回避した。オルフェーヴルに加えてキズナも出走したことから日本調教馬による凱旋門賞初制覇の期待は例年以上に大きく、この日のロンシャン競馬場の入場者約5万人のうち、日本人は約5800人に達した。 迎えた本番。スタートからペンライパビリオンが押し出されるように逃げ、後にジョシュアツリーがこれを追い抜いていく。フリントシャーやアンテロは中団を進み、オルフェーヴルは中団の後方外目を追走、キズナやトレヴはさらに後ろから進む。フォルスストレートではトレヴが外から追い抜いていき、キズナもオルフェーヴルの進路を塞ぐように横に並びかける。直線に向くとトレヴが一気に抜け出す。直線に向いて進路の確保にやや手間取ったオルフェーヴルはアンテロと馬体を合わせてトレヴを追うが差はむしろ開いていき、最後は5馬身差をつけられて2年連続の2着に敗れた。 レース後に行われたインタビューで、池江は「精一杯やってきましたし、力は出し切った。それで負けたので勝った馬が強かったとしか言いようがない」「(凱旋門賞制覇という扉を)去年は一瞬開けることができてゴール寸前で閉じたという感じだったが、今年は扉に手をかけることすらできなかった」と完敗を認めた。
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フランス遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:17 UTC 版)
遠征レースとして選ばれたのはフランスのマイルG1の最高峰であるジャック・ル・マロワ賞(ドーヴィル競馬場、芝直線1600m)であった。7月21日に渡仏したタイキシャトルだったが、レース本番を約1ヶ月後に控えた渡仏だった点について「もっと早く向こう(フランス)に行って、環境に慣らした方がいいのでは?」との周囲の声もあったが、「日本で競馬を使うときと同じように調整をしたい」との藤沢の考えのもと、調教もいつも通り馬なり中心で行われ、その効果もあってかフランスに渡った後もタイキシャトルはイラつくこともなく、終始リラックスをしていた。 また、フランスではトニー・クラウト厩舎に入厩したが、その際、クラウト厩舎ではタイキシャトルが万全の状態で調整ができるよう、日陰かつ目の前の馬の往来も比較的少ない馬房を使用させてくれ、偉業達成のための協力を惜しまなかった。厩舎でのタイキシャトルを見たクラウトは「いつ見てものんびりしている感じで、寝ている事もたびたび。レースへ向けて気持ちが乗って来ない感じで、体も太い感じ。『もう少し強い調教をした方が良いのではないか?』と思いました」と当時を振り返っている。しかし、藤沢は「海外へ行くとむしろ張り切ってやり過ぎる傾向がある。でも、オーバーワークになったら良い状態に戻すのは難しい。トニー(クラウト)が正しいとか正しくないという意味ではなくて、海外だからと言って普段と違う事をやる必要はないんだ。今まで日本でやってきた通り、自信を持って同じ事をやり通せば良いんだ」と自信をもってタイキシャトルをレースに送り出した。ジャック・ル・マロワ賞の1週間前に行われたモーリス・ド・ゲスト賞でシーキングザパールが日本調教馬として初の海外GI制覇を成し遂げたことや、その際、シーキングザパールの調教師だった森秀行が「来週、出走するタイキシャトルはもっと強いですよ」と発言したこともあり、タイキシャトルはこのレースでも単勝1.3倍という圧倒的な1番人気に支持されており、一時的に単勝オッズが1.1倍になるほど一本かぶりの人気となった。これは強敵と見られていたインティカブが故障のため出走回避したことで、日本で圧倒的な戦績を誇っていたタイキシャトルに人気が集中した面もある。このオッズを見た藤沢は「まるで日本のレースに出たときのオッズだな…」と苦笑するしかなかったという。当日は重馬場でのレースとなり、タイキシャトルは逃げるケープクロスの後を2番手で追走したが、レース前半は集中力を欠き、物見をしながら走っていた。直線1600mという仕掛けどころの難しいコースで岡部が残り100mで仕掛けると、すぐさまケープクロスを競り落し、最後は追い込んだ2番人気のアマングメンを半馬身抑えて海外G1のタイトルを手に入れた。シーキングザパール、タイキシャトルと日本調教馬が2週続けてフランスのG1を勝ったことはヨーロッパの競馬関係者に大きな衝撃を与えた。また、調教師の藤沢、騎手の岡部にとっては本場のG1を勝つという悲願を達成した瞬間であり、岡部が表彰式で涙を見せるシーンもあった。ただ、この日のタイキシャトルはこれまでにないほど入れ込み、装蹄中の志賀を蹴った上、レースまでの数時間で入れ込みが治まらなければ出走取り消しの判断が下される可能性すらあったという。 その後はムーラン・ド・ロンシャン賞やブリーダーズカップ・マイルに挑戦することも検討されたが、検疫の問題等もあり、最終的には日本へ帰国しマイルチャンピオンシップに進むことが決定した。
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