スコットランド守護官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 14:16 UTC 版)
「ウィリアム・ウォレス」の記事における「スコットランド守護官」の解説
スターリング・ブリッジの戦い後、セルカーク(英語版)における会議で、モレーとともにスコットランド守護官(英語版)に任じられた。1296年にスコットランド王ジョン・ベイリャルがイングランド王エドワード1世に敗れて退位のうえイングランドに連行されて以来、スコットランドは王位が不在となっており、スコットランド王権はエドワード1世が接収していた。ウォレスのスコットランド守護官への就任はそれを認めず、ロンドン塔で幽閉されているジョン・ベイリャルを真のスコットランド王に見立てて、ジョン王のスコットランド王国を守護するという立場を示すものだった またこれ以降ウォレスは「サー・ウィリアム・ウォレス」と呼ばれるようになっており、守護官に任じられると同時に勲爵位が与えられたと見られる。誰がウォレスに勲爵位を与えたかは判然としない。理論上では騎士であればだれでも別の騎士を任命することは可能だったが、イングランドの年代記には「逆賊がスコットランドの大伯爵の手で騎士に叙された」と記されている。この記述からナイジェル・トランターはキャリック伯爵ロバート・ブルース(後のスコットランド王ロバート1世)がウォレスに勲爵位を与えたと主張している。当時の12人のスコットランド伯爵の中で、ある者は未成年、ある者はイングランド側、ある者は闘争から遠く離れて生きていたなどの消去法によって出された結論である。ただ新たなる文書による裏付けができない限り、これも確定することはできない。 守護官となって実質的にスコットランドの国政を任されたウォレスはスコットランドのかつての交易・外交関係を取り戻すべく、ヨーロッパと接触を図ったと見られ、1297年10月にはドイツのリューベックとハンブルクに宛てて「リューベックとハンブルク、2つの町の商人は今やスコットランド王国の全ての地域に自由に出入りできる。その自由は、神の恩顧によって、戦争によって、イングランド人の権限から取り戻されたものである」という内容のラテン語の手紙をモレーとの共同署名で送っている。この文書は「リューベック文書(The Lübeck letter)」と呼ばれるが、第二次世界大戦末にソ連軍が東側へ持っていたために行方不明となり、大戦中のリューベック空襲(ドイツ語版)で焼失したと考えられていたが、1970年代にソ連の文書館で発見され、1990年に交渉の結果リューベック市に返還された。この文書は印璽からウォレスの父親の名前は「アラン」だったと伝えている。 ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部ノーサンバーランドやカンバーランドに進攻した。しかしモレーはスターリング・ブリッジの戦いで負傷していたため同道しなかった(彼は負傷が原因で1297年終わりごろに死去している)。 1298年3月29日付けでウォレスとスコットランド議会の名義でスコットランド軍世襲の旗手アレクサンダー・ル・スクリムジャー(英語版)に書簡が送られているのが確認できる。
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