スコットランド平定に邁進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 06:46 UTC 版)
「ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)」の記事における「スコットランド平定に邁進」の解説
モントローズ侯の軍はアイルランド兵とハイランド地方の兵(ハイランダー)からなる少数かつ寄せ集めの部隊で、指揮権はそれぞれ独立している、装備も貧弱という問題が多かったが、モントローズ侯は地形を利用した作戦とゲリラでカバーする方針に出た。緒戦のティパミュアの戦い(英語版)は湿地帯に誘い込んで相手の騎兵隊の動きを止め勝利に繋げ、アバディーンの戦い(英語版)でも盟約派を破り、スコットランド中を荒らし回りつつ山や沼などに潜伏して追跡をかわし、冬に入ると強行軍で山越えで西部へ進出、アーガイル侯の拠点アーガイル・アンド・ビュートでも略奪し盟約派を大いに動揺させた。 アーガイル侯が奪還に向かうと一旦ネス湖へ北上、そこから南下し1645年2月2日のインヴァロッヒーの戦いでアーガイル侯の軍を撃破した。それからウィリアム・ベイリー(英語版)の追跡を振り切って北や東へ転戦した後に南下、8月15日のキルシスの戦いで大勝を飾り、アーガイル侯ら盟約派がイングランドへ逃亡した後はグラスゴーへ入りチャールズ1世の名で議会召集を図るまでになり、連戦連勝を重ねたモントローズ侯の軍事的名声は絶頂に達した。しかしここに至るまで犠牲も大きく、モントローズ侯の息子の1人が行軍中に死亡、ハントリー侯に代わり王党派に合流した長男のジョージ・ゴードン卿が7月2日のアルフォードの戦い(英語版)で戦死するなど王党派の被害は少なくなかった。チャールズ1世はモントローズ侯に期待して合流すべく北上したが、先立つ6月14日のネイズビーの戦いで議会派に大敗、再起が難しい状況になっていた。 この頃になると盟約派も反撃を考え、イングランドからリーヴェン伯の派遣軍がスコットランドに戻ることが決まると、モントローズ侯も迎え撃とうとしたが、麾下のハイランダーやマッコーラが勝手に軍から離脱、急速に弱体化してしまった。それでも迎撃しようとしたが9月13日、リーヴェン伯の甥デイヴィッド・レズリーの軍にフィリップホフの戦いで敗れ、姿をくらました。モントローズ侯の脅威は未だ消えず、盟約派はしばらくモントローズ侯の再起に怯え、王党派は合流の希望を捨てなかったが、やがて敗報が届くとチャールズ1世は合流を諦めオックスフォードへ戻り、1646年4月にオックスフォードも危険になると脱出したが盟約派の軍に連行された。モントローズ侯は尚もスコットランドで戦い続けたが、盟約派の捕虜となったチャールズ1世の命令で軍を解体、ノルウェーへ亡命した。
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