ハイランダー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/05 03:47 UTC 版)

ハイランダー(英語: Highlander)は、スコットランド北部ないし北西側のハイランド地方の住民。南東側にあるローランド地方との境界は「ハイランドライン」と呼ばれ、断層線ともほぼ一致し、自然条件・地理条件から両者の交流には障害が多く、それが両地域の住民が共通の祖を持ちながら異なる特徴を形成するに至った[1]。ゲール語文化圏としてのハイランドはかつてはローランド地方と面積はほぼ同程度であり、人口も16-17世紀には半分程度、18世紀には1/3程度はあたと推計されている[1]。その後、18世紀後半から19世紀にかけての生産構造の変化に伴う強引な小作権取上であるハイランドクリアランスの影響で住民が離散、人口が激減している[2]。
イギリスの軍隊では、ブラックウォッチやスコッツ・グレイなどの精鋭部隊を始めとするハイランド人で組織された連隊はハイランダーズ(Highlanders、高地(人)連隊とも)と呼ばれている。タム・オ・シャンターと呼ばれるベレー帽に似た帽子を被り、タータンチェックのキルトまたはズボンを履き、バグパイプ演奏者が随行することで有名である。
スコットランドにはもともとケルト系のピクト人などが住んでいたが、古代から、南方からのローマ帝国、アイルランドやイングランド王国、それに北海の向こうのヴァイキング(ノルウェー人)などの軍事的、文化的侵略にさらされた。ローマ衰退とともにアイルランド北東部にいた、やはりケルト系のスコット人が移住してピクト人、ブリトン人らを制圧していき、9世紀までにその優位がかたまりスコットランドと言われるようになったとされる。
スコットランド内部においても、とくに北方の僻地であるハイランドでは氏族制社会が長く続いた。対して、ローランドでは早くから産業化が進み、また、南方のイングランドと国境を接するがゆえにイングランドの影響を受けることも多かった。そのため、ハイランドはローランドとは異なる文化的伝統を残した。独自の文化であるケルト文化やカトリックの信仰が保護、強調され、結果としてそれらは高い士気へと繋がった。侮蔑的に、ローランドではハイランド人を「アイリッシュ」と呼び、ハイランドではローランド人を「イングリッシュ」とよぶこともあったという[1]。
山岳部あるいは周辺海域の島々であるために、外界と隔離までは行かないにしても交流が困難で、文明の浸透が遅く、生活環境が快適とは言いがたいハイランドでは、貧しい土地であったため、兵士を資源として提供し、傭兵としてイングランドやその他のヨーロッパ諸国へ赴くことが多く、イングランドにも貢献した。また、ときにローランド地方に略奪に出かけたり、氏族社会の伝統が近世まで長く残ったために同じ王朝に服しても異なる氏族どうしで争うことも多かった。こうしたスコットランド人(ハイランド人)の勇猛さはイングランドだけでなく、その他のヨーロッパ諸国にも認められており、例えば15世紀フランスのシャルル7世が創設した近衛兵も、こうしたスコットランド人の部隊が最初だった。
関連項目
脚注
ハイランダー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:09 UTC 版)
ハイランダー(Highlander)はイギリスの競走馬である。コロナック産駒でイギリスで走った競走馬としては、モントローズの次に活躍した が、むしろファロスやフェアウェイの兄弟馬として知られる。 Highlander 血統 ハリーオン系 性 騸 Coronach1923 栗毛 イギリス Hurry On Marcovil 毛色 栗毛 Tout Suite 生年 1930 Wet Kiss Tredennis 生産地 GB Soligena 生産者 第17代ダービー伯爵 Scapa Flow Chaucer St.Simon 馬主 第17代ダービー伯爵 Canterbury Pilgrim 調教師 Anchora Love Wisely 成績等 21勝 Eryholme 主な戦績 21勝。リバプールオータムカップ、ディーステークス、ケンブリッジシャーステークス3着 ハイランダーの兄のファロスはチャンピオンステークスなど14勝をあげ、フェアウェイもセントレジャーをはじめ12勝をあげた。両者とも種牡馬になると大成功をおさめ、イギリスやフランスでチャンピオンサイアーとなる。このほか、姉のフェアアイル(Fair Isle)は1000ギニーに優勝しているし、兄のスピットヘッド(Spithead)も重賞勝馬で、ハイランダーは生まれながらにして成功を約束されたようなものだった。 非常に見栄えの良い馬で、兄弟の中では最も美しい馬と評され、同年生まれのハイペリオンとくらべても血統、外観は同じぐらい優れており、少なくともクラシックが実際に始まるまでは、ハイランダーはハイペリオンと同じぐらいクラシックの有力候補と思われていた。 ハイランダーは1934年に、当時のイギリスでも最大級のスプリント戦 のケンブリッジシャーステークスで、差のない(1着から半馬身、短鼻差)3着になった。このレースには英国馬のほか、フランス、アメリカ、アルゼンチンの馬が参加する国際色豊かな競走だった。当時の新聞は、ハイランダーの兄のファロスやフェアウェイが大成功中の種牡馬であることに触れ、ハイランダーが引退して種牡馬になれば相当な人気になるだろうと報じている。 しかし、ハイランダーは気性難から去勢されてしまった。その後、リバプールオータムカップ(1着賞金1500ポンド)などに勝った。通算では約6000ポンドを稼ぎ、コロナック産駒の競走馬としては、イギリス国内ではモントローズに次ぐ活躍馬だった。
※この「ハイランダー」の解説は、「ハリーオン系」の解説の一部です。
「ハイランダー」を含む「ハリーオン系」の記事については、「ハリーオン系」の概要を参照ください。
- ハイランダーのページへのリンク