スコットランド帰国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:25 UTC 版)
「メアリ・オブ・ギーズ」の記事における「スコットランド帰国後」の解説
マリーはスコットランドに帰国したが、依然として情勢は安定せず、この年の11月にメアリーと王太子フランソワの委任を受けたラ・ボロス遠征隊が、ソルボンヌの神学者達数人を伴ってスコットランドに到着した。神学者達はスコットランドのプロテスタントと神学論争をするつもりで来たのだった。すると、イングランドに援助を求めていた組合貴族達は、10月に会衆に加わっていたシャテルロー公(元アラン伯)を名目上の指導者にした。この月には、組合貴族達は一時エディンバラを占領し、マリー・ド・ギーズはスコットランドを征服するためにフランス軍を連れて来たのだから、摂政を退くのが当然だと宣告した。1560年2月27日、ジェームズ卿を代表とするイングランドと、当時イングランドにいたシャテルローの代わりとして、北方の総督代理となったノーフォーク公を代表とする、プロテスタントのスコットランド貴族との間で、ベリク条約が締結された。イングランド貴族達は、スコットランド人のいにしえからの自由と独立を守りつづけられるよう調停を務める、という名目でスコットランド入りし、マリーとフランス軍が占領していたリース城を包囲した。このため、1560年4月にメアリーとフランソワは、モンリュクト、ペルヴェンド、ブロスという3人の使者を遣わし、エリザベス1世と交渉をさせた。 結果、1560年7月6日、エディンバラ条約が締結された。その内容は、イングランド軍とフランス軍の即時撤退、メアリーとフランソワのイングランドの紋章使用禁止というものだった。8月11日にスコットランド議会は、プロテスタントの信仰告白書を公表し、ローマ教皇の管轄権撤廃、カトリック教会の財産没収、ミサの挙行を禁止する事を決定した。なお、3回禁を犯したものは死刑とされる事にし、こうして宗教改革が行なわれた。しかし、マリーはエディンバラ条約が締結される前に最後の賭けに出、ボスウェルにドイツで5000人の傭兵を募兵させ、デンマーク王フレゼリク2世に航海の援助を要請するため、デンマークにも派遣した。 しかし、カトリックの衰退を目の当たりにしながら、ボスウェルの帰りを待たずに、マリー・ド・ギーズは1560年6月11日に死去した。なお、この知らせを聞いたメアリーは、気がふれたのかと人々が心配するほど悲しみ、彼女がイングランドでの長い虜囚生活の末に処刑されるまで、ずっと母の肖像画を所持していたという。
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