かつてのバカン伯爵とモーマー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 06:46 UTC 版)
「バカン伯爵」の記事における「かつてのバカン伯爵とモーマー」の解説
スコットランド・バカン(英語版)のモーマー(英語版)(支配者)としてガートナイト(英語版)がブック・オブ・ディーン(英語版)のゲール語のノートで後援者として記述される。ファーガス(英語版)の死後、バカンのモーマー領は婚姻関係によりバカン外の一族であるカミン家(英語版)のものとなった。 カミン家の2代目のバカン伯であるアレグザンダー・カミン(英語版) (-1289) はガロウェイ(英語版)地方に所領を拡大し、スコットランド守護官(英語版)に就任した。その息子でカミン家3代目のバカン伯のジョン・カミン(英語版) (-1308) は、イングランド王エドワード1世に臣従し、1297年には愛国者ウィリアム・ウォレスの蜂起の鎮圧にあたり、1305年にエドワード1世をスコットランド王として認めた。1306年に従兄弟にあたるバデノッホ卿(英語版)ジョン・カミンが犬猿の仲だったブルース家のロバート(後のスコットランド王ロバート1世)に殺害されると復讐を誓い、翌年にスコットランド王即位を宣言してイングランドに反旗を翻したロバート1世と戦ったが、敗北して土地を没収された。 ついでスコットランド王ロバート2世の四男でバデノッホの狼 (the Wolf of Badenoch) の異名をとるアレグザンダー・ステュアート(英語版) (-1405) がバカン伯に叙位された。その後、その兄オールバニ公ロバート・ステュアート (1340頃-1420) と、その息子ジョン・ステュアート (1381頃-1424) がバカン伯となった。オールバニ公ロバート・ステュアートは兄ロバート3世とイングランドに捕らえられていた甥ジェームズ1世の在位中に摂政を務めて国政を主導した。ジョン・ステュアートは1421年に1万2000人のスコットランド軍を率いてフランス軍の援軍にかけつけ、フランス軍司令官として、劣勢だったフランス軍を立て直し、情勢を逆転させる転機を作った。しかし1424年にヴェルヌイユの戦いで戦死した。また1425年には帰国したジェームズ1世によってオールバニ公爵家の粛清が行われた。
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