オールバニ公とは? わかりやすく解説

オールバニ公爵

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/12 06:02 UTC 版)

初代オールバニ公爵レオポルド、1868年撮影。

オールバニ公爵(オールバニこうしゃく、英語: Duke of Albany)は、スコットランド王国連合王国の王族の称号。スコットランド貴族として5度、連合王国貴族として1度創設された。グレートブリテン王国の時期にはヨーク公爵と合同した「ヨーク=オールバニ公爵」という爵位が創設されることもあった。

歴史

ダーンリー卿および初代オールバニ公爵ヘンリー・ステュアート、1564年頃。

1398年4月28日[1]、スコットランド王ロバート3世(c.1337/40-1406)は弟にあたるファイフ伯爵ロバート・ステュアート(c.1340-1420)をオールバニ公爵に叙した[2]。初代伯爵ロバートの死後は息子マードック・ステュアート英語版が継承したが、1425年に処刑され、爵位も剥奪された[1]

スコットランド王ジェームズ2世(1430-1460)の次男アレグザンダー・ステュアート英語版(c.1454-1485)は1458年までにオールバニ公爵に叙されたが、兄ジェームズ3世(1451/52-1488)の治世に2人が争いになり、1479年にエディンバラ城に投獄された[2]。アレグザンダーは脱獄して、パリでフランス王ルイ11世に助けを求めて失敗した後、イングランド王エドワード4世に援軍の代償として臣従を承諾し、グロスター公爵リチャード(後のイングランド王リチャード3世)の援助を借りてエディンバラに向けて進軍した[2]。このときは妥協がなされ、アレグザンダーの官職と領地を回復する代償としてアレグザンダーがジェームズ3世に臣従することとなったが、1483年2月にはアレグザンダーとエドワード4世の交渉が再開され、2人は改めて条約を締結した[2]。これによりアレグザンダーとジェームズ3世の和解は振り出しに戻り、7月にはイングランド滞在中のアレグザンダーが本国で反逆罪により死刑を宣告された[2]。アレグザンダーはフランスに逃れ、1485年に死去した[2]。アレグザンダーの息子ジョン・ステュアート英語版(1481/84-1536)はフランスで育てられたが、1515年にスコットランド議会英語版の要請を受けて、イングランド王ヘンリー8世の妨害をはねのけて帰国、7月に摂政に任命され[2]爵位も回復した。以降は摂政として権勢をふるったものの、1524年にスコットランド王ジェームズ5世(1512-1542)の成人が宣告されると摂政の座を失って失脚、フランス王フランソワ1世の味方としてイタリアに渡って第三次イタリア戦争に参戦した[2]。結婚はしたものの嫡出子はおらず、1536年に死去すると爵位は廃絶した[2]

1541年、ジェームズ5世の息子アーサー(1542)は出生と同時にオールバニ公爵を儀礼称号として使用したが、洗礼から8日後に死去した[3]

1565年7月20日、スコットランド女王メアリー1世(1542-1587)の夫にあたるダーンリー卿ヘンリー・ステュアート(1545-1567)はオールバニ公爵に叙された[3]。ダーンリー卿が1567年2月に殺害されると、生後数か月の息子ジェームズ・ステュアート(1566-1625)が爵位を継承したが、そのさらに数か月後の1567年7月に母メアリー1世が退位すると、ジェームズはジェームズ6世としてスコットランド王に即位、爵位は王領に統合された[4]

初代オールバニ公爵チャールズ・ステュアート、1623年頃。

ジェームズ6世の次男チャールズ・ステュアート(1600-1649)は1600年11月19日に生まれ、同年12月23日に洗礼を受けると同日にアルドマノック卿ロス伯爵オーモンド侯爵オールバニ公爵に叙された[5]。1625年にジェームズ6世が死去すると、チャールズ・ステュアートはチャールズ1世としてスコットランド王に即位、爵位は王領に統合された[5]

チャールズ1世の次男にあたるヨーク公爵ジェームズ・ステュアート(1633-1701)は1660年12月31日にオールバニ公爵に叙されたが、1685年にジェームズ7世としてスコットランド王に即位すると、爵位は王領に統合された[5]

1881年5月24日、ヴィクトリア女王(1819-1901)の四男レオポルド王子(1853-1884)アークロー男爵クラレンス伯爵オールバニ公爵に叙された[6]。1884年にレオポルド王子が死去すると、息子チャールズ・エドワードが爵位を継承したが、1919年3月28日には1917年称号剥奪法に基づく国王ジョージ5世の命令により爵位を剥奪された[7]。『クラクロフト貴族名鑑』によると、チャールズ・エドワードの息子ヨハン・レオポルト(1906-1972)の息子エルンスト・レオポルト英語版(1935-1996)の息子フベルトゥス英語版(1961-)は1917年称号剥奪法第2条に基づき、オールバニ公爵の回復を求めることができる[7]。ヨハン・レオポルドの貴賤結婚により、彼の子孫はザクセン=コーブルク=ゴータ公爵家の家長になれなかったが、オールバニ公爵への請求権には影響しなかったという[7]

オールバニ公爵(第1期、1398年)

  • 初代オールバニ公爵ロバート・ステュアート(1340年頃 – 1420年)
  • 第2代オールバニ公爵マードック・ステュアート英語版(1362年 – 1425年)
    • 1425年、私権剥奪ならびに処刑

オールバニ公爵(第2期、1458年)

  • 初代オールバニ公爵アレグザンダー・ステュアート英語版(1454年頃 – 1485年) - 1479年に剥奪、1482年に回復、1483年に再び剥奪
  • 第2代オールバニ公爵ジョン・ステュアート英語版(1481年/1484年 – 1536年) - 1515年に回復

オールバニ公爵(儀礼称号のみ、1541年)

  • オールバニ公爵アーサー・ステュアート(1541年)
    • 1541年、夭折

オールバニ公爵(第3期、1565年)

オールバニ公爵(第4期、1600年)

  • 初代オールバニ公爵チャールズ・ステュアート(1600年 – 1649年)
    • 1625年、チャールズ1世としてスコットランド王に即位、爵位は王領に統合された。

オールバニ公爵(第5期、1660年)

  • 初代ヨーク公爵・初代オールバニ公爵ジェームズ・ステュアート(1633年 – 1701年)
    • 1685年、ジェームズ7世としてスコットランド王に即位、爵位は王領に統合された。

オールバニ公爵(第6期、1881年)

出典

  1. ^ a b Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 78–79.
  2. ^ a b c d e f g h i Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Albany, Dukes of" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 1 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 487–489.
  3. ^ a b Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 82.
  4. ^ Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 82–83.
  5. ^ a b c Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 83.
  6. ^ "No. 24977". The London Gazette (英語). 24 May 1881. p. 2677.
  7. ^ a b c "Albany, Duke of (UK, 1881 - 1919)". Cracroft's Peerage (英語). 2019年12月23日閲覧

関連項目


オールバニ公 (Duke of Albany)

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ゴネリルの夫。

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