2人の王太子を失うとは? わかりやすく解説

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2人の王太子を失う

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:15 UTC 版)

ロバート3世 (スコットランド王)」の記事における「2人の王太子を失う」の解説

ロバート3世も完全に「名目上国王」に甘んじていたわけではない1398年にはスコットランド初の公爵位であるロスシー公創設し長男デイヴィッド英語版)を叙爵し、同年ファイフ伯ロバートオールバニ公叙爵して権力分散図った。さらに1399年には、ロバート3世自身障害隣国イングランドとの衝突理由に、長男デイヴィッド王国統監にして王国支配権移管した。 しかし、この権限の委譲デイヴィッド素行力量無視した人事と言われ数々不祥事起こしたデイヴィッドやむなくロバート3世逮捕令を出し1401年に弟オールバニ公ロバートフォークランド宮殿監禁した。翌1402年3月26日から27日にかけて、ロスシー公デイヴィッドフォークランド宮殿謎の死遂げた長男失ったショックで父王ロバート3世は、デイヴィッドの死が幽閉時の監督責任であった王弟オールバニ公ロバートによる暗殺ではないか疑った疑い議会オールバニ公査問する騒ぎ発展したが、結局デイヴィッドは「自然死」とされた。 議会自然死結論付けても、ロバート3世疑念晴れなかった。デイヴィッド次に三男ジェームズ暗殺され自身王位簒奪されることを恐れたロバート3世は、1406年2月ジェームズ同盟国フランス宮廷送って保護してもらうことにした。しかし出港前にダールトン城に滞在していたジェームズに、オールバニ公ロバート追手差し向けた戦いが始まるとジェームズ手漕ぎボート脱出フォース湾のバスロックに逃げ延びた。フランス行きの船が到着するまでの1カ月間、ジェームズとその従者荒れ狂う海の中のこの小さな岩だらけの島に取り残された。 この間オールバニ公ロバートは、フランス行き妨害手配したイングランド王知らせ送りイングランド王ジェームズ捕獲の兵を派遣した結局ジェームズノーフォーク沖でイングランド勢によって捕らえられ捕虜としてイングランド王ヘンリー4世の許へ送られ以後1424年までイングランド抑留された。

※この「2人の王太子を失う」の解説は、「ロバート3世 (スコットランド王)」の解説の一部です。
「2人の王太子を失う」を含む「ロバート3世 (スコットランド王)」の記事については、「ロバート3世 (スコットランド王)」の概要を参照ください。

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