2人の後継者候補
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謙信には実子がおらず、上杉家の家督継承についての謙信を遺志を明示する史料は残されてない。このため江戸時代から、謙信が抱いていた構想として、後継者を景虎または景勝のどちらかとする説、二人とする説、決めていなかったとする説が存在する。 景虎後継者説の論拠としては、越後入りした三郎が謙信の初名(長尾景虎)である「景虎」を譲られたこと、謙信に代わって雲門寺など寺社への新年祝賀の礼状を送っていたこと、軍役を課されないなどの優遇措置をとられていた点などが挙げられる。 北条氏を実家とする景虎は、上杉家と北条家の取次に重要な役割を担っていたことが明らかであり、翌年初頭には謙信の寵臣である河田長親から送られた陣中見舞いへの礼状が残存するほか、越相同盟以来、景虎とは非常に縁の深い柿崎家の文書には少人数の動員ながらも松木加賀守らに軍役を命じた書状(当時、軍役を命じる文書は必ずしも大名とその後嗣にのみ見られるわけではないが)も残っている。 しかし一方で、景虎に軍役が課されなかったことの根拠とされる天正3年(1575年)の『上杉家軍役帳』は必ずしも上杉氏の全軍事力を網羅したものではなく、関東その他の地域の在番衆などを除く本国越後の春日山城周辺から動員が可能な諸士にのみ記載が限られていることから、景虎の名がないのは作成時期と地域における軍事力・秩序区分から除外されたためであり、したがって軍役の記載がないことが優遇措置ひいては景虎後継者説の論拠には直結しないという見解もある。 『上杉家軍役帳』の記載からは、謙信が景勝を他の上杉一門衆(山浦・上条・古志など)をしのぐ最上位に位置づけていたこと、家中最大級の兵力を担わせていたこと(最大の兵力を擁したのは山吉豊守である。天正5年(1577年)の豊守死後、その家臣団の一部は景勝直属部隊である五十騎組に配され、景勝の権力基盤である上田衆の中に組み込まれる)、また家臣たちの景勝に対する呼称が謙信への尊称である「御実城様」と類似した「御中城様」であったことも示唆され、他の一門衆が「十郎殿」などと通称や姓に「殿」付けで記されている(山浦国清と上条政繁は謙信の養子ではあるが、分家の当主となった)のに比し、謙信と同じく「御」「居住場所(中城)」「様」で敬称されている景勝は謙信の養子のなかでも高い地位を与えられていたことがわかる。 謙信が没する直前の天正5年(1577年)12月23日奥書を持つ『上杉家家中名字尽』には「一手役」の軍役を務める有力武将81名の名が記載されているが、この中に景勝の名は記載されておらず、この頃には上杉家家臣・上田長尾家当主としてではなく、謙信の子として扱われている事が伺える。 両者の血統面を考察すると、景虎は小田原北条氏の出(母遠山氏)であって上杉氏に縁を持たないのに対し、景勝は謙信の甥(姉である仙洞院の子)という非常に近い血筋であった。加えて景勝は上条上杉家(越後守護上杉家の分家で、守護を輩出している)の血を引いており、上杉家を継承する上においては謙信以上の正統性を有していた(景勝の母方の祖母、祖父である上田長尾房長の生母は共に上条上杉氏出身である)。 上田長尾家当主として長尾顕景を名乗っていた景勝に天正3年(1575年)、上杉景勝の名を与えて弾正少弼の官位を譲っていることから、晩年の謙信が景勝の更なる地位の補強を図っていたという見方もある(ただし弾正少弼を与えることで関東管領職候補から景勝を外す意図であったとする意見もある)。官途の問題もあり、謙信は関東管領職を景虎に、越後国主を景勝にそれぞれ継がせるつもりであったという「後継者二人説」を唱える研究者もいる。いずれにせよ現段階の研究では、景虎の関東管領・景勝の越後守護相続による分権説、景虎と景勝のどちらかを唯一の正統な後継者と目する説のどれも通説とは言い難い。 越相同盟締結時は景虎を後継者として想定したものの、同盟破綻後は景勝に切り替えたとの見解も存在する。 歴史研究者の乃至政彦は、謙信死後に越後の東隣り、陸奥国会津から越後へ侵攻して失敗・撤退した蘆名盛氏の兵が、平等寺薬師堂に残した落書に、景虎と景勝が「御名代あらそひ」をしたと記したことに着目。謙信からの家督相続は既定路線として、景勝が、景虎を含む家中が認めて行ったものの、次々代の後継者として想定されていた上杉道満丸(景虎の実子)の保護・養育を巡る対立(「御名代あらそい」)があったと推測している。
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